どうしてだろうといつも思う。
「戦争反対」
確かに、戦争は間違っている。何の罪のない人々が無残にも死んでいく。
その惨劇の行為に怒りさえ覚える。
「戦争反対」―確かにそうだろう。
だが・・・ここで言いたいのは、戦争の善悪ではない。
ひとつだけ・・・戦争の善悪は歴史が決める。戦争は歴史的に見ても単なる殺し合いでなく、人の生命に対する執着から齎される生きていくための所業ともいえよう。
話を元に戻すが、ここで言いたいのは戦争の善悪でなく、出だしの疑問にも直結するが、「戦争反対」という言葉に対する疑問である。
戦争反対という意志は尊重できるもので、素晴らしいものだと思う。
ただ、言葉が一人歩きしていないか?疑問に感じる。
極端に言えば、戦争は巨大な暴力である。殺し合いも正当化する暴力。
しかし、暴力は身近にもある。二人の喧嘩による暴力、一方的なリンチ(私刑)、そして、殺人。
「戦争反対」の運動はよくテレビなどで目にするが、暴力、殺人など犯罪に反対する運動はほとんど見かけない。している人もいるだろうが。
確かに、戦争と犯罪は違う。だが、「戦争反対」というのも大事かもしれないが、それよりするべきことがあるじゃないのかと考える。それは・・・犯罪を抑える―究極的には犯罪をなくす(ゼロにする)心構えである。
「戦争反対」という日本人が、罪もない殺しをする、残虐ないじめ、家庭内暴力、窃盗、詐欺・・・・・・大きな暴力を許さない人たちが、小さな(?)暴力に目を背けている。もちろん、悪行を行うのは一部の人たちだ。ほとんどは、「戦争反対」と胸をはって言える善良な人々である。しかし、身近な犯罪に目を背けていないだろうか?
前に、万引きを咎めた結果やむなく店じまいする本屋の話があった。
そのとき、人々は言う。万引きぐらいいいじゃないか。
この小さな犯罪が、すぐに大きくなっていくわけでもない。しかし、わずかな小さなことでも、そこから、強烈なひずみが生まれることを人々は失念している。ちょっとぐらい・・・・・・そのちょっとがだんだんと大きくなっていることに気づかない。
悲しいことに、現代は内より外に目が向けられすぎている。外を良くしようと考えても、内が腐っていけば本末転倒だ。
苦しいかな、現代は「内」は良くない。小さな所で家庭内、大きく国内を見ても、決して良いとは言えない。その「良くない」というものの根底にあるものの一つに、ちょっとぐらいいいじゃないかという小さな悪に対する無関心があろう。
人々は、悪いことに慣れてしまっている。悪いことをしても、別に問題ないじゃないかという空気が蔓延している。そういう空気が蔓延しているこの現代で「戦争反対」という言葉は、なにか矛盾してやいまいか?大きなことは許さないが、小さなことは許す(気にしない)この社会、外のことは関心を示すが、内は無関心でいるこの社会。
このまま放っておけば、内から崩壊していくことだろう。戦争で滅びるのでなく、内にある悪意から国は、人は滅んでいくのではないか?
今ならまだ間に合う。滅びる前にするべきこと、一人の人間にできることはあるはずだ。
一人の思いやり。わずかな思いやり。優しさ。一人一人が、今よりほんの少しでも、思いやりの優しさを持てば、「内」は良くなっていけるかもしれない。
それは、歴史に残ることのない小さなこと。
その小さな善意が人を、そして、国をより良くしていくのではないのだろうか。
(*2004年2月1日)