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空と雲と
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空と雲と

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「どうして僕は私は学校に行かなくてはいけないの?」という話をチラッと聞いたことがあります。
学校に行かなくても、問題ないじゃないか。と言われたら、なかなか答えようがありません。
どうして、学校に行かなくてはならないのか?
どうしてなのでしょう?
私自身もはっきりとした答えは出せません。しかし、それでは話が終わってしまいますので、私自身思っていることを書いていこうと思います。

 学校に行く理由。勉強をする。
 まず、第一にこれがあります。しかし、現代の日本では、まず、この「勉強する」こと自体、問題になってきてるのではないでしょうか。
なぜ勉強するのか。
いい大人になるため? よりよい人生を送るため? 自分のしたい仕事をするために? 自分を確かめるために?
理由はたくさんあると思います。しかし、勉強する理由がはっきりと持っている人は少ないと思います。私自身も高校を卒業したときでも、何のために勉強しているのかよく分かっていませんでした。ただ、どこかのいい大学に入るために勉強していた感じがあります。それでも、大学に合格するという、昔になると高校に合格するという一つの目標があったので、勉強する意義があったのかもしれません。
目標があれば勉強は出来るものです。しかし、漠然とでは、ただ言われるままでしか勉強などしません。実際、勉強はあまり楽しいものではないでしょう。もちろん、中には好きな人もいますが。
勉強したいと思う人は、みんな目標を持っています。その目標に向かって勉強し、その目標を実現するために勉強する。だから、勉強するのです。
学校に行かなくても、もちろん勉強はできます。やる気とやり方さえ知っていれば誰だって出来るものですから。
勉強をするだけが学校ではありません。
学校に行く理由に人間関係の育成が次にあげられます。
社会に生きている以上、誰かと接するのは当たり前です。人間関係をよりよくしていくためにそういう機会を作らないといけません。学校は一つのそういう場なんでしょう。だからって、学校に行かなくても、いい訳です。学校以外でも、そういう場はいくらでもありますから。
それでは、なぜ学校に行かなくてはならないのでしょうか?
私自身の考えでは、無理してまで行く必要はないと思います。しかし、学校に行く代わりの何かを見つけておく必要があります。そうしないと、後が続きません。なにもないと自分自身もつらいですし、周りの人も大変です。学校に行く代わりを見つけれない以上は学校に行くことが必要ではないでしょうか。
学校に行くと、楽しいことも辛いこともたくさんあります。
学校に行きたくないと思う人は、辛いことのほうが多いでしょう。
学校は生徒全員のためにあるべきなのに、今は数人の人のためにあるような感じがあるように思われます。
これが、問題なのでしょう。人によって実力の差はもちろんあると思いますが、みんなをよりよく導いていくことに学校の意義があります。少なくとも義務教育と呼ばれる間は。
学校の本来のあり方を見直すときが来ていると思います。
「学校にどうしていかなくてはならないのか?」皆さんも一度考えてみてください。
学校は現代を現す一つの形ですから。

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  A
 不登校、引きこもりという現代の病理は、これからますます深刻になっていくと思います。上記にも少なくとも関連することですが、次はこのことについて考えていきたいと思います。
 人間性の希薄、情報の氾濫、自由という名に束縛された社会・・・自分を見失う、多くの要因が現代の社会には溢れています。
自分を見失い、悩みに疲れ、動くことにも億劫(おっくう)になる・・・引きこもりということになったとしても、決しておかしくはありません。
自分を見失うことは生きていて多々あります。その時導いてくれる人がいれば、もう一度自分を取り戻すことも可能でしょう。
悩みは尽きません。少々の悩みなら、まだ精神的にも耐えることもできますが、一定の範囲をこえると心が飽和してしまって、悩みに押しつぶされてしまいます。悩みを一緒に考えてくれる人がいることで、悩みの苦痛を取り去ることも可能でしょう。
動きたくなくなるのは、身体的なものももちろんありますが、心がそれだけ疲れている証拠なのでしょう。少々体が疲れていても、心が健康なら、動けるものです。
 心の病気・・引きこもりたくなる原因の一つがここにあります。
 私自身、不登校・引きこもりの状態になった経験があります。
そういう状態のとき、本人にはどうしたらいいのかわからず、ただ一人で悩みの苦痛の中に放り込まれたままになります。
周囲の人もどうしていいかわからないのか、ただ心配したり、怒ったり、放任したり、他人任せになったり、・・・だんだんと本人との間に溝が出来ます。
本人は自分ではどうしようも出来ず、誰かに助けてほしい、わかってほしい、一緒に考えてほしいと心のどこかで思いながら、日々苦痛と戦うことになります。
私の場合はこの状態から脱却するまで、5年はかかったと思います。時間が解決してくれる・・・私の場合はそうでした。父のある程度の理解はありましたが、誰も助けてくれず、ただ、このままではいけないという気持ちから、なんとか這い上がったという感じでした。もちろん結果的には自分自身の問題なのですが、一人で回復するには相当な時間、悩み苦しみ、戦わなくてはいけません。それをわかってくれる環境がなければ、きっと私は自分を捨てていたでしょう。そういう意味で父には感謝しているところです。
でも、いまでも心の傷は残っています。この傷が完治するのはいつなのか私自身にはわかりません。ただ、私には前に向かって歩こうという思いがあります。その思いを確かめながら、私は今を頑張っています。
 少しの間、わたくしごとになりましたが、・・ひきこもりの状態になることは決しておかしなことでなく、誰にでも起こることです。人である以上、心の病気はいつ起こるかわかりません。引きこもりの状態になった時・・これからがみんなで考えなくてはいけないことですが・・本人にはどうしていいのかわかりません。たとえわかっていても自分ではどうしようもないのです。
周りの人は理解してあげなくてはいけません。しかし、こういう経験のない人は、引きこもりの状態になる意味がわからず、先も書きましたが、ただ心配したり、怒ったり、放任したり、他人任せになったりします。考えなくてはいけません。引きこもりは本人だけの問題だけでなく、家族を含めた周囲の人の問題でもあるのです。周囲の人は、共に戦う気持ちが必要です。話を聞いてあげましょう。
でも、本人にはたとえ家族でも、話せないことはいっぱいあります。不登校になる原因の一つでいじめがありますが、そのことを親に話せる人は少ないものです。親に心配かけたくないということもありますが、心のどこかで、話してどうにかなるものかという虚無思想もあるのです。
親は、周囲の人は、傷ついたそれらの人の気持ちをわからなくてはいけません。話を聞くときは自分の感情だけで話を聞いてはいけません。こういうことを話したら拒絶される・・引きこもり、そして、不登校になる人はそういう思いが頭のどこかにあります。相手の話を真剣に聞かなくてはいけません。決して、拒絶してはいけないのです。自分の理解できないことは拒絶してしまう人が多いと思います。しかし、この引きこもりの状態に関しては、相手の拒絶は更なう追い討ちをかけることになるのです。カウンセラーを経験した人は分かると思いますが、カウンセラーの先生は相手の話を拒絶することはありません。彼らは、自分にとって未知のことでも、一緒に考え思うことを大切なことと思っています(もちろん、中には相手の話を拒絶する先生もいるかも知れませんが)。
引きこもりの状態の時、拒絶は毒です。言葉だけでもなく、行動でも拒絶してはいけないのです。
自分のことをわかってもらえたら、心の傷は浅くなります。それから、少し行動してみようかなと思うことにもなります。
また、引きこもりの状態になる人は、自分に自信が持てなくなっています。自信の欠如も、引きこもりの原因の一つで、周りの人は本人の自身を取り戻す手助けをしてあげることが必要です。僕は頼りにされているんだ。私は必要とされているんだ。そういう気持ちになると、心は軽くなり、また、頑張ってみようかなと思えてくるのです。
拒絶してはいけません。わかってあげましょう。頼ってあげましょう。あなたは必要だと教えてあげましょう。それが、心の傷を治す薬になるのです。

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 B  2003年4月19日

 今回はちょっとした精神論?のお話です。難しいかもしれませんが、気にしないで見てください。あくまで、私自身の考えです。

 人の心には『光』と『闇』の部分があります。それはうまく心の中に共存していて、そして、決して一つになることのないものです。
『闇』は『光』より強いのかもしれません。白い絵の具を黒く染めるのは簡単です。ほんの少し黒い絵の具を足すだけでも、白は黒く染まっていきます。反対に、黒を白く変えるのは非常にたくさんの白い絵の具が必要になります。
一つの例でしたが、心の『光』もまた同じ、少々の『闇』で心の『光』はその輝きを失っていきます。『闇』に染まった場所を『光』に変えるには、非常に多くの『光』が必要になるのです。
心の『闇』・・・憎しみや嫉妬など・・・はある日突然芽生えるものです。もちろん、何かがあって憎しみを抱くのですが、それを回避するのは難しいでしょう。運命は必然であって、それが起こってからそれは運命になるのです。憎しみを抱く出来事の回避は出来ません。問題はその後。憎しみは『闇』。その憎しみを消さない限り、心にある『光』はその憎しみの『闇』により、徐々に輝きを失い、次第には『闇』と化してしまいます。どこかで『闇』の侵食を止めないと、心は『闇』の世界となってしまいます。『闇』を止めるのは難しいものです。自分ひとりでは、相当の努力と強い意志が必要になるのです。だったら、別の誰かが『闇』を止める?本当はそうであってほしいものです。しかし、理解できないことは人は拒絶してしまう性質があります。相手の憎しみがわかり、それを取り除くのは非常に難しいことでしょう。
少々の『闇』は心にある『光』がその『闇』を消してくれます。強い『光』の心を持つこと。それが心持つ者に課せられた一つの運命であるのでしょう。

心にある『光』と『闇』。それらは一人一人にあり、そして、それはすべて繋がっています。光の世界と闇の世界。そして心の世界。それはどこかですべてが繋がっていると思います。繋がっているから、人は理解できる。分かり合える。そして、協調する。
笑顔がみんなを幸せな気持ちにしてくれるという言葉があります。それはみんなの心の世界が繋がっているから起こるもの。
恐怖という闇は段々と広まっていく。それも、みんなの心の世界が繋がっているから起こるのかもしれません。

現代の社会は殺伐とした雰囲気があります。それは、どこかにあるすべての心の世界が薄暗くなってきてるのではないのでしょうか?
すべての心の世界が暗くなっていくことは、そこに繋がっているみんなの心も暗くなっていってしまう・・。恐ろしいことです。しかし、人には協調があります。シンクロする。決して、空前の話でもないと思います。
私自身なんとなく、世界のなにかが暗くなっていく感じがしています。それは、見えないどこかで『闇』が強まっていってるのかもしれません。そして、その『闇』はほかの者に徐々に影響を与えている・・・。
一人一人が『光』を強く持つ・・・。それは現代の殺伐とした社会から脱却するために必要なことかもしれません。

抽象的な話でしたが、世界は一つに繋がっていると私自身思っていることです。
そう、すべての世界は・・・ひとつに。

追伸  実はこういうことを題材にしたお話を私自身、作っています。私の大好きなファンタジーな話ですが。また、機会があったら出そうと思っているので、その時はまた、お願いします。でも、いつになるでしょうか?

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 C   2003年6月30日

 「AさんはBさんに3万円のお金を貸しました。」という例があるとします。
その後、時期がきたのでAさんはBさんに3万円を返してくれるよう言いました。
しかし、Bさんは返そうとしません。こんなとき、Aさんはどうすればいいのでしょうか?
Bさんから無理やりにでも、3万円取る?日本では自力救済を禁止しています。つまり、3万円の借金があるからといって、勝手に相手の家に押し入って、3万円相当のテレビや宝石などを持っていくことは出来ません。
 3万を貸したのだから、それを返してもらう権利が法律上はあります。しかし、相手側の協力がない場合それを実現するためには、裁判所に訴えるしかありません。自力救済が禁止されているのですから。
 自力救済を認めると、債権があるからといって勝手に相手の物を取っていったり、家族が怪我をしたからといって相手側を殴ってもいいことになると、治安や秩序がめちゃくちゃになってしまします。だから、自力救済は禁止されているのですが、相手側が悪い場合、それを罰するのは裁判をするしかない。しかも、その裁判はすぐに終わるものではなく、時間のかかるものだ(+費用もかかる)、ということになりますと、やはり社会として問題があるのではないでしょうか?現在の法組織は何処か被害者をないがしろにしているところがあります。
ある程度、法律を勉強すると感じることですが、結局、法律は裁判になることで、意味があります。
 法律に書いてあるのでしない、という、法には行動の規範になる部分もありますが、それも結局は裁判が前提にあるのではないのでしょうか?
 また、法がなければ罰することができないというのもあります。悪いことをしても、法律に定められていないから、逮捕されない。刑に科せられても、たいしたことがない。・・・おかしな話ですね。
 法による支配・・・メリットもたくさんあります。しかし・・・最近はデメリットの方が目に付きます。
 先ほどの例のように、債権を回収するにしても、結局裁判沙汰になり、時間や費用が多く掛かってしまう(最悪返してもらえないことも)、や、あんな悪いことしたのに罪が軽すぎるなど、正しい人間が損をする。被害者が泣く。救済がない。・・・こうなれば、法とはなんぞや?になります。
法は正しく生きている人のため、被害者のためにあるのではないのか?本当はそうあるべきだと私は思います。しかし、それが覆っている例がよくあります。社会の矛盾を法が助長している。法の在り方が問われます。

(*それならば、どうするのがいいのか?となると、難しい。今のように、情報が氾濫し、また、倫理観が欠如しかかっている社会では、法律で行為を縛るしかない部分もあります。そのために、法律が数え切れないほど存在してしまう。なのに、隙間もたくさんある。ずる賢い人が得をし、正直者が泣く・・・。
 人を信頼し、法など必要ない社会が一番いいのですが・・・。
そんな社会を来ることを祈って、今回は終わります。)

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 D 2003年8月1日

  「犯罪は現代の社会を写す鏡だ」という言葉をどこかで聞いたことがあります。
現代は情報の多様化で、犯罪の形も過去には考えられないような方法で行われています。
サイバー犯罪・・・相手の情報を盗み見したり、コンピューターに進入して誤作動を行わせる・・・。コンピューター管理が進めば、進むほど、コンピューターを通した犯罪の被害は拡大すると思います。この犯罪は、自宅にいてもできるというところが怖い。おそらく20年前には考えていなかった犯罪の一つだと思います。
携帯電話を利用した犯罪もそうでしょう。これも、昔では考えられなかった犯罪だと思います。
上記二つに関連するのは、「見えない」ということでしょうか。
相手が見えない。自分自身も相手には見えない。見えないから、悪いこともしてしまう・・・。匿名性と言うのでしょうか?もちろん、「見えない」ことにもいいことはあります。個人の悩みを大っぴらで見せるのはやはり出来るものでありませんし、見えないということで、自分の思っていることを素直に出せることもあると思えます。
何にも表裏があり、この「見えない」ということにも、表裏があるのは自然なものかもしれません。
 犯罪の前提にあると思われるものの一つは、倫理観の欠如です。現在の社会は、倫理観が失いつつあると感じます。 私自身、5年程前に「あと10年したら、倫理観が壊滅するのではないか」と思ったことがあります。今の様子を見ていると、本当にそうなりそうで怖い気がします。
倫理観は人一人一人が実感して、行わなければいけないもので、強制して倫理観を持たせることは出来ないでしょうし、強制で持たされた倫理観など、すぐに壊れると思います。どうやれば、失った(失いつつある)倫理を取り戻すことが出来るか?これからの社会が解決するべき、問題の一つであります。
人は影響を受けやすい存在だと思います。それに加え、良い影響はあまり伝わらず、悪い影響は簡単に伝わるものだと思います。これを考えれば、倫理観が失うのも簡単。悪いことはすぐに広まります。これは、もちろんその時の社会が影響することで、悪の根がすぐに刈り取られる社会では悪いことなどできませんし、悪いことなど出来なくなると思います。
ただ、今の社会はそうではありません。犯罪率の増加、犯罪検挙率の低下をみれば分かるように、悪の根は切り取られることなく、徐々に広がっていっている。そして、その悪の根は簡単に他の人にも影響を与えてしまう。その結果、倫理観などどうでもいいような社会が出来てしまう・・・・・。
大人が悪いというのも、もちろんわかります。一般的に、その行動が目に入りやすいのは大人の行動です。とくに、このテレビが発達した社会では大人の行動が逐一に見ることが出来ます。簡単に離婚する内容のワイドショーを見れば、離婚なんて簡単なものなんだ、というイメージが知らないうちに広まり、夫婦の絆から生まれる倫理もなくなってしまう。この程度の約束を守らなくても問題ないじゃないかというのを聞けば、約束なんてたいしたことないんだというイメージが伝わってしまう。ニュースでは毎日のように、悪事(犯罪)が放送される・・・。大人の悪いと思われる行動が簡単に見れ、わかる今の社会では、大人が悪い、大人が変わらなくてはいけない、という話しは本当にそうだという気がします。でも、これも結局は一人一人の認識が必要なのだと思います。特に個人の尊重を謳っている現代の社会では。
犯罪を無くす。倫理観溢れる社会にする。
そのためには、「見えない」場所においても一人一人が自覚を持って行動することが必要ではないでしょうか?
見えないからなにをしてもいいや、どうせばれないからやってしまえではなく、「相手」がいなくても(見ていなくても)、正しいことを考える(考えられる)自覚が現代の社会には必要なのでは?と思われます。
そのためには・・・・・・「見える」場所にいる大人が、大人だけでなく人全体が正しい行動をし、周囲により良い影響を伝えていくのが大切だと思うのです。


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