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法律連載第6弾           法律への独り言


      第16回目                憲法を読むパート5

  個人的観点から?憲法を読むパート5、憲法22条からです。

 憲法22条「@何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。A何人も、外国に居住し、または国籍を離脱する自由を侵されない。」
  生活を行う場所、その方法は人間にとって重要な事項である。基本的人権を認めた民主主義にとって、人々の自由を守るのは至極大事なことであり、その中の特に生活に関わる、住む場所や仕事の選択などを憲法上保障するのはこれまた至極当然のことであろう。生活する場所を固定される、仕事を強制的に決められる―もし、こうなれば、今まで憲法にあった幸福追求権や法の下の平等等を実現するということと反することになるのではないか。自由という権利には義務を伴う、社会秩序を維持するために制限はあるが、その制限内の自由まで奪われることは、権力による強制国家―見方によれば、奴隷国家と同じである。居住場所、職業を強制されることは、奴隷的扱いを認めることと同じであろう。奴隷的拘束を受けない―といった条文にも反することになる。
 人々は社会の構成員であり、その社会秩序を維持するために制限があるのもこれまた当然のことである。職業によって許可制、認可制等を取っているのも、社会秩序の維持、そして警察的・経済的見地から人々を守るためである。当然、規制の行き過ぎは、本来認めるべき自由を奪うことに繋がる。どの程度の規制なら許されるかは、国家の方針―法的解釈の問題(司法の判断)になるだろうが、規制はあくまで人々の生活秩序を守るためのものであり、不当に自由を奪われないようにあるべきことを忘れてはいけないだろう。
 人は本来自由であるということが、現行民主主義の考え方であろう。自由である限り、その者の意思で住む場所、国自体を選ぶ権利も許される。日本人は日本領土でしか住めないといったことになれば、結局は自由を認めないことと同じである。他国の国籍を得られないということも同じ。自由を認めるということは、(秩序維持のための制限はあるが)基本的にその者の意思を認めることであろう。
 条文では「何人」とあるので日本国民だけでなく外国人にも保障される内容である。しかし、条文を読む限り、入国に関しての記載は何もない。この辺り、判例による外国人の入国等の判断が特に興味深いので挙げておく。
「本条は、外国人の日本国への入国についてなんら規定されていないものというべきであるから、特別の条約がない限り、国は外国人の入国を許可する義務を負うものでない。」
「憲法上、外国人は在留の権利ないし引き続き在留することを要求しうる権利を保障されてはいない。」
 ――国家として、その国の国民を守ることは当然のことである。自国の国民をないがしろにして、他国の人を大事にするのは「国民主権」の見地からも本末転倒だ。自国民を守るため、他国の人に対しては、自国民以上の制限を課すのは認められることであろう。公共の福祉に反しない限り、ともあるし、在留資格など外国人の日本における職業選択等のあり方を制限されるのも認められるものと考える。

 憲法23条「学問の自由は、これを保障する。」
  食を取るなどの生きていくための本能は別として、人は知らないことはわからないと私は考えている。人は学び知ることによって、物事を理解していく。学び知り、理解することによって、社会のルールやより良く生きていくための方法を知る。本能だけで生きているのではない、人は学び成長していく生き物なのである。その学ぶ機会を国家の権力で奪うことは、人の成長を妨げ、また無知な民衆は権力者にとって動かしやすい、つまり自由を迫害されることになるだろう(自由があることすらわからないということも)。学ぶ内容を国家により強制され、他を認めないということは、思想内面の強制にも繋がりかねない。学問の自由を奪うことは、自由そのもの、人が持つ人生の選択権を奪うことに繋がる。
 学問の自由に関しての有名な判例を挙げておく。「大学の学問の自由と自治は、直接には教授・研究者の研究・発表・教授の自由とこれらを保障するための自治を意味する。〜大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用が認められる。学生の集会が実社会の政治的社会的活動にあたる行為をする場合には、大学の許可があっても、大学の有する特別の学問の自由と自治を享有せず、警察官が立ち入っても大学の自治を侵すものでない。」
 判例によると、学問の自由として、研究の自由、研究発表の自由、教授の自由とこれらを保障するための大学の自治を保障している。学問の自由として、あらゆる学問に関する行為の自由を認めているわけでなく、例えば小中学(義務教育)においては、教師に完全な教授の自由は認められていない(学力テスト裁判旭川事件判例、「普通教育においても一定範囲の教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではないが、〜教育の機会均等を図る上からくる全国的に一定の水準の確保の要請等を考えれば完全な教授の自由を認めることはできず、国は必要かつ相当と認める範囲で教育内容を決定する権能を有する。」)。
 公共の福祉に反しない、秩序維持の観点から自由は制限される。学問の自由に関してもそれは同じ。必要な範囲でその自由は制限される。ただ、人は学問を通じ、学び知り、人生の選択権を多くできる可能性があることから、学問の自由の制限がどのように必要になるのかは考えさせられることである。

 憲法24条「@婚姻は、両性の合意にのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。A配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
  過去は、戸主制度、夫婦男女間の妻の地位の低さなど「家」における力関係があった。それは、その時代の歴史的・思想・慣習的背景から作られた形であり、差別的であるがゆえ、その形は、民主主義ー法のもとの平等を掲げている現在のあるべき背景によって変えられる。家族に関する事項は、個人の尊厳と両性の本質的平等を基本原則とし、それを裏切らないように国家は運営、法を制定しなければならない。個人各自の自由として、婚姻をするかどうかは(親等の同意を必要とせず*例外あり、国家・権力による強制でなく)本人の意思によってあるべきことを示している(精神的自由権の一つとしてあるもの)。
 家族に関する事項は民法上に規定されているが、各自の条文がその時代・社会的思想にあっているかはまた別途考えるべき内容だろう。しかし、現行の法律が今の思想にあっていないといって変更をするにしても、公益(社会秩序を守る)そして、この憲法の条文にあるような「夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」などといった事項と反するような改変を認めることはできない。相互の協力によって維持されなかればならない、というのは結婚においての心構えの意味もあるだろう。

 (*2007年11月23日 )

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       第17回目                 憲法を読むパート6

  個人的観点?で憲法を読むパート6です。
  憲法25条「@すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。A国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
 憲法25条では、生存権を保障している。その生存権は、ただ「生きる」だけの生活を権利として認めているわけでなく、健康で文化的な−(限度の範囲で)健康で趣味等を楽しめるほどの生活を送れる権利を有している。とはいっても、国が国民の生活を完全に保障する(完全に生活の面倒を看る)という話ではない。判例にある文言を見ると…「本条により直接に個々の国民は、国家に対して具体的、現実的な権利を有するものではない。社会的立法・施設の創造充実に従って初めて、具体的、現実的な生活権は設定充実される。」「本条1項は、国の責務を宣言したにとどまり個々の国民にたいして具体的な権利を賦与したものではない。健康で文化的な最低限度の生活とは、抽象的・相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発展、国民経済の進展その他多数の不確定要素を総合考慮して初めて決定できるものであるから、その認定判断は、裁量権の限度を超えた場合のほかは、厚生大臣(当時)の裁量権に任されている。」「本条は国家の責務を宣言したものであり、その具体化は立法府の裁量に委ねられ、著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえない場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事項である。」―― と、生存権の具体的な施策は国の裁量で決定されるものであり、例えば、憲法にこう書いてあるじゃないか生活を保障しろ(面倒をみろ)とは直接的には言うことはできないものである。もし、この例えのようなことが認められるとしたら、人は働くことをしなくなるだろう。だって、働かなくても国が面倒を看てくれるのだから。例え、それが最低限度の範囲としてもそれで満足できれば十分なのである。さすがに総怠け者社会を国として認めるわけにはいかない。最低限度の生活の保障は、秩序を守り、(生きるための)努力をし、誠実に生きている人に対して足りないものを支援するという内容であるべきである。
 憲法(本条2項)、判例上にもあるように、具体的な社会保障は、国の施策として決定される。見方を変えると、これは現在の国家としての良し悪しを計る一つの基準となるものであろう。個人的には、この社会保障、そして税・治安がその国家を計る上での基準だと考えている。それは、国民の生活のしやすさを示すもので、普通に暮らしている人が困らないほどの社会保障がある、適度な税負担(税により国家を支えるという制度であるので、税金なしとはいえない。また、税金制度は幾らか秩序維持の意図も含まれている)、安定した治安、これが良い国家の姿だと思う。逆に、健康を害しても(お金がなくて)治療できない、働くこともできず生活援助もない、生活に必要な分をも税として取られてしまう程の重い税負担、悪化した治安−過度な自己防衛をしないと生きていけない社会、これは悪い国家の姿だと思う。国を支え国を作るのが人であり、国の基盤である人を育て守ることが国を維持することである―人無くして国家なし、人を大事にしない、普通に生きていけない国家は基盤の破壊、自滅していると言ってもいいだろう。民主主義―国民が主権者として国を治める国家である以上、尚更のことである。現在の社会保障の「仕組み」をどう判断するべきか難しい。ただ、その時の資産・金銭的状況に応じて、国民の負担が増えていくという仕組みは、破綻していると言って良い気がする。それはイコール、国を支える人が生活し難い、生活できなくなる姿が予測できるからである。子供は笑い、成人は努力が叶う(頑張れば報われる)、老人は安らかに過ごせる、そんな社会保障の制度でなくてはならない(社会保障は一因、こんな社会の実現のためには、他に、教育制度、労働制度、警察治安、そして個々の倫理道徳なども含めて考え、作り上げなくてはならない。)。

  憲法26条「@すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。Aすべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする。
  人は知らないことはわからないと思っている。こんな法律の内容の理解だけでなく、日常生活に必要な計算、読み書きなども知らなければわからないし、できない。生まれ出て、文字に触れる、文字の意味を知る機会がなければ、文字を使ったコミュニケーションを取ることもできないかもしれない。前述の学問の自由があるといっても、そもそもの「学問の仕方」自体わからなければ、学び得ることもできないかもしれない。本能として、「生きる」術(食を取るなどの)は無意識に行えるだろうが、社会生活に必要な技能(例:言葉の理解、会話をする上での言葉の使い方、規則を守る意味を知ることも)は、学び得ないとできない可能性が高い。例えば、言葉のない場所で生まれ育ったとしたら、言葉を使うコミュニケーションもできないだろう。そんな人が、日常社会で生活していくのは非常に困難である。一人でも自給自足できる環境ならいざ知らず、現実的な社会は、言葉のコミュニケーション能力がなければ(言葉の意味等わからなければ)、買い物も働くための情報を得ることも難しい。わからないとできない。言い換えれば、人々は、学び知ることで社会の中で生活できる方法を覚えるのである。その学び知ることは、自然の中では誰しもできるものではない。教えられ、そこで学び知る機会を得るのである。人々は教えられ育つのである。法の下の平等を掲げる国民主権国家では、その国の基盤となる国民を育てる意味でも、ひとしく「教育」を受ける権利を与えられなければならない。
 社会の中で生きていくには必要な知識や技能がいる。義務教育を行うのも一人の人が社会の中で生きていく知識・技能を学ぶためである。とはいっても、何も知らない子供は、その義務教育の必要性、教育を受ける方法等わかるものでもなく、国やその子供を保護し育てる親が子供に教育の機会を与えてやらないといけない。義務教育―学校制度や保護する子女に普通教育を受けさせる義務を国民が負うのも、社会の国民の一員となる子供にひとしく教育の機会を与えるために必要不可欠なことである。
 条文を見ると、法律の定めるところとあり、教育基本法・学校教育法の中に具体的な内容が記載されている。当然、「法律」は最高法規である憲法の内容に反してはならないのであって、この26条にある文面に反するような内容・改変は行うことはできない。この法律の中の、26条に関連する内容のものを幾つか掲げておきたいと思う。
・教育の機会均等「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」
・義務教育「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。」
 なお、義務教育はこれを無償とする、とあるが、判例上、これは授業料を徴収しないことを意味し、このほかに教科書・学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないと定めたものではない、となっている。ということで気になるのは、その教科書も買うだけの経済的余裕がない場合はどうするのか?という問題があるが、学校教育法によると、小中学…経済的理由によって、就学困難と認められる学齢児童の保護者に対しては、市町村は必要な援助を与えられなければならない、と規定されている。
 この26条2項は、国民の義務を定めている。子を育てるのが親の役目。教え育てる「教育」の機会を子供に与えてやるのは、生物として自然な理とも言える。子は親の「物」ではなく、未来の国を担う、それは民主主義国家では国を支える大事な存在である。民法820条によき内容が書かれている。「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」と、子供を育てる中では、そこに親の自由があるとしても、そこには導き育てる「義務」があるということを知っておかなければならない。

(*2007年12月20日 )

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      第18回目                   憲法を読むパート7

  途中で他の題名についての「法律への独り言」すると思いますが、今回も個人的観点で?憲法を読むのパート7です。
 前回が26条までだったので、27条から。

 憲法27条「@すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 A賃金、祝業規則、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律で定める。 B児童は、これを酷使してはならない。
  国は、その国に住む人々(国民)によって支えられている。与える影響の程度に差はあるとはいえ、各国民一人一人が「働く」ことで国は国として「活動」できるのであるのと思う。特に国民主権の民主主義国家とすれば、国民の「働き」が国を支える、といっても良いと思う。
 人は、働くことによって収入を得て(対価を得て)、その収入をもって生活に必要なものを得る。これは集団社会だけのことだけでなく、一人だけの環境でもいえることだ。”何もしない”で生きていくに必要な食べ物は得られない。食べ物を手に入れるには、労働(自然界からの食べ物の調達、狩り耕作など)を行わなければならない。勝手に食べ物が飛んできて、食べやすいようにその人の前に現れるわけではないのだ。生活をしていく、生きていくには「働く」ことが必要なのである。生きていくに必要な「働く」こと、そして、その「働き」が国を支える原動力となる。生きることに直結する…人々に「働く」権利があるのは当然のこと、そして、国民主権であるということはその一人一人に国を支えるための「働く」義務があるということだ。
 その「働く」行為について、社会上当然ルールが必要になってくる。好き放題してもいいことになったら、簡単に社会の安定秩序は崩れ、強い者だけが生き残る社会になる。強い者だけが生き残る社会は、各一人一人が主権者となる民主主義とは相容れない。平等原則、民主主義国家として、「働く」」事に関しても当然、平等な条件を与えられなければならない。とはいっても、「働く」行為の結果は一つでなく、様々に分かれる。一つの「働き」によって、得る対価も、大なり小なり違いがあるわけだ。だから、平等な条件が必要と言っても、どこを基準として考えるかで、条件の幅が変わってくる。厳しくしすぎると、活動が萎縮し、働きの生産力が減少するかもしれない(それは国家的に弱体することに繋がる)、緩やかにすると、強い者が有利に弱者は憲法が禁じる奴隷的身分に成り下がる可能性がある。基本的に「働く」自由はあるので、その自由が極度に制限されず、また弱者不利な状況を生み出さない制度が必要になる。現在、ちゃんと法律が守られているのか疑問に思えるのだが、最低基準として労働の法として、労働基準法等が制定されている。労働環境は、時代によって変化していくので、その時代に即した変更が「法律」によって行うことができる必要性があろう。憲法上定めたとしたら、変更するには憲法改正をしないといけなく、そのときの状況に即した変更は難しく大変だ。法律なら、状況に即した変更を、それも国民から選ばれた人たちが作るわけなので、多くの有益があるといえる。
 子は国の宝。次の国を担う子供を酷使し、潰すのは、国家を潰すのと同意である。生物学的にも、子供はその生命を繋ぐ存在。成長すべき段階の子供を、使役させ酷使し成長を妨げることは、結局は、その生命の未来も妨げることなのと思う。「働く」ことも勉強であり、成長を促すものであるが、限度を超えた「労働」は成長段階の子供を壊すことに繋がりかねない。これまでの過去の時代を踏まえても、憲法上において、きとんと「児童は酷使してはならない」と置いておくのは重要なことであろう。

 憲法28条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
 使用者と労働者との間には、結局は格差…力関係がある。資本主義といえる現在の社会構造では、自由な競争を促進するため、法律による規制も極力避けなければならなくなる。となると、雇用・賃金支払いなど有利な立場にいる使用者に、雇われる労働者は主張しづらくなるだろう。意見を言うことで、待遇が悪くなったり、また力関係の差で例えいくら望もうが、賃金アップなどを取り上げてくれず、最低限度の環境で低賃金で働き続けなければならない。労働者にとって良い環境を築く使用者もいようが、それらを決定するのは、結局は使用者の気持ち次第ともいえる。つまり、使用者と労働者とが対等な立場で交渉できる機会がないと、使用者の考え一つで労働者の労働環境が変わってしまうことになりかねない。労働者が、力関係の上で上位にいる使用者と対等な立場で交渉するのは易しいものではなく、また法の下の平等−その機会が均等であるためにも、法律上による権利を与える必要性はある。その権利は…憲法上で、労働三権を、労働基本権として労働者に保証している。一人では立ち向かえなくても、皆の力をあわせれば、使用者に対抗できる。そういう団結権を認めている(もし法律上保証されていなければ、使用者の力で何かと工作し、団結できない状況を易しく作れる)。集まっても、対等に交渉できる立場でないと、力でねじ伏せられてしまいかねない。そのための団結交渉権が保障されなければならない。例え、対等な立場での交渉が実現しても、それはあくまで名目上、結局は力のある使用者の気持ち次第で結果が変わる。労働者たちに、使用者の権力に対抗するための行動を保障する必要もある。そのための団体行動をする権利(争議権)。これらを制定法律上ではなく、憲法上で保障するということは、それだけ重みがあり、(例え国民から選ばれた人たちと言えども)もし国会の中で決定できる状況にあるならば、政治家(その背後に使用者の力が加わり)の恣意で変更させられる可能性が出てくるわけで、国民の直接な決定が必要とする憲法上にあることは、国民の手で守れるということでもある。労働者として、働く環境の構築を対等な立場で求めることができる権利を(力関係で弱者になりやすい)国民は守れることでもあるのだ。なお、国民全体の利益の保障、秩序を維持する必要性からも、公務員の労働基本権は制約があることを判例等上示している(たとえば、待遇が悪いぞ!ということで警察官が一斉ストライキ起こしたら、犯罪を取り締まる人がいなくなるということで、窃盗とかしたい放題の状況になるだろう。そんな秩序崩壊となりうる状況を国家として認められない。)。

(*2008年2月29日 )

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      第19回目                      憲法を読むパート8

 今回も、個人的観点で?憲法を読む、です。

 憲法29条「@財産権は、これを侵してはならない。A財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。B私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。
 憲法は、国民が守るべき最高法規でもあるが、国家が国民に対して守るべき規定であることにその重要性がある。国家権力というのは、如何せん、国民の自由や権利を蔑ろにする凶悪性が秘めている。しっかり手綱を締めないと、権力による暴挙は起きるべくして、国民の自由権利は簡単に剥奪される。国民の権利、そして物を、巨大な力があれば幾らでも奪い取ることができるようになる。憲法は、国家権力の行使に歯止めをかけるものである。国家は、国民のために、国家的秩序を維持するために、憲法を守る義務があり、そして、その一つとして、財産権を侵さないという権力の歯止めを要する。財産を形成するのは、本来自由であり、各人の努力によって、生み出される物である。が、もし財産権の保障がないと言うことは、力による奪取が認められるということだ。そうなれば、容易く殺伐とした荒れた社会になる。身体的暴力がなくても、幾らでも、相手の物を奪いそれが許される社会では、人々は安心して暮らしていけない。まさしく、弱肉強食の社会となる。それは、私人間だけでない、国家権力も含めて容易く起きることなのだ。「物」と切っては切れない生活をしている人間にとって、その物を守る、物にある権利(お金に変わる権利)を侵されないということは、あるべき人間としての社会生活を侵されないということであろう。
 とはいっても、国家的見地として、公共全体のことを考えなければならない。また、財産権があるのだから−自分の物だからと言って何をしてもいいわけでなない。社会秩序を壊すようなことは、認めるわけにはいかない。なので、財産権も、他の自由権と同じく、公共の福祉による制限が課せられる。また、社会全体のためには、公共のために用いることが、良しとなることもある。だけど、本来あるべき財産権を放棄してまで、公共のために用いるからという国家に提供する必要はない。本来あるべき財産権は守られるように、正当な補償があって、その財産権を補完してはじめて、公共のために用いることが許される(正当な補償は、本来あるべき財産権を充足させるものである必要性があると考える。)。
 この財産権のあり方は、当該国家の姿である。その国、その時代によっては、その国にあるものは、国の物として必要に応じて国民に貸し与えているという国家の姿もあろう。だが、現社会では、この国民主権の民主主義国家では、各国民本来の権利として財産権が保障されている。
 
 憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
 今の社会は、税金によって、国家を維持管理する制度になっている。国民の納税−その税金によって、国家の運営は成り立っているわけだ。国は、国民の生活を守る。その対価として、国民は国に税金を納める。国は、国民によって作られる。その基盤となるのが税金というものである。国家を維持管理する制度として、金銭、物による年貢だけでなく労役という方法もあろうが、現社会は、国王、貴族といった固定的な身分があるわけでなく、名目上は、各平等に主権的な地位がある。つまり、特殊な身分にある者でなく、国民の中の一部が、国家運営に携わっているわけだ。国家運営に携わっていると言っても、その人は、国民一人一人とたいして差があるわけではない。主権の存ずる国民は、平等にその主権を維持する努力が必要になる。国家運営に携わる者は、その者の労務才能を、直接携わらない者は、税金によって国家を維持する力となる。国民主権の国家として、各国民が国家運営を行うという意図でも、納税の意義がある。
 しかしながら、例え、運営している者たちが国民なのだとしても、その国家権力というものは、国民との間に力関係の格差が存在する。納税の意義はあっても、その範囲に制限がないと、国家権力の力により、国民は多大な支出を強要される。法律による規制は、その制限となるものはずだが、考え方によっては、法律の規定が、国民の多大な支出を強要するものになりかねない。それは、法律の制定運用、税金の徴収も国家的立場で行われているからである。国民には納税の義務はある。各国民が国家を守る社会制度では、それは必要なものだ。だからといって、人間らしい、もっと言えば、少なくとも憲法25条にある「”健康で文化的な”最低限度の生活」が出来なくなるような支出まで強要されていいわけでもないだろう。当然、国家があるから、国民の生活が守られる。しかし、国民を蔑ろにしてまで納税(支払いを義務付けられた社会保障費等も含めると)を強要できるのだろうか。法治国家の限界をも考えての話であるが、納税制度いや国家的財産の管理等は完全に国民の主観で維持できる方法を確立しなければならないかもしれない。とにかく、はっきりとした三権分立がなされていない現状(特に立法と行政とが密接な関係にあるように見える…)、この条文には危険性が孕んでいると言えるかもしれない。

(*2008年3月21日 )

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      第20回目                        憲法を読むパート9

  個人的観点で?憲法を読むのパート9です。
 憲法31条から40条は、刑事事件に関しての事柄になっています(裁判を受ける権利を保障する32条は刑事だけでないですけど)。
 それぞれの条文に必要性、各国民の自由を守る具体的意義がありますが、中心になっているのが、31条にある罪刑法定主義です。

 憲法31条「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
 人間社会の中心事項は、犯罪に対する対応であると思う。何を犯罪とすることから、どう犯罪を防ぎ抑制し、どのように犯罪を犯した者を罰するか、その社会構造を現す指標となろう。正直言って、皆仲良く皆平等で傷つくことも苦しむこともない社会なら、警察もこういった憲法法律もいらない。悪人……犯罪を犯すものがいて、それによる被害があるから、対応するための決まりが必要となる。何を犯罪…悪とするかは、その社会、時代、文明、思想などによって違ってこよう。場所を変えれば、殺し合いも正当とされるところもありえるかもしれない。しかし、少なくとも今の日本では、殺しは重い罪であり、各種自由を剥奪する行為は悪として、社会秩序を(見方を変えれば)人の権利を侵害する悪事は許されない。社会そして人を守るための決まり。継続・生存が、国家また人間の根底としてあるのなら、その継続、生存を破壊する行為は全力をもって阻止されなければならない。
 何を犯罪とするか、どのように犯罪を罰するかは、その国家の思想、社会運営に帰属する。法治国家である日本では、何を犯罪とするか、どのように犯罪を罰するかは、法律によって定められる。言い方を変えれば、法律がなければ罰することができない。それが法治国家、罪刑法定主義を取っている国家のあり方である。法の下の平等、そして、基本的人権の尊重を掲げている日本では、正当な手続きのもと、法律に従って人の権限は束縛されなければならない。国家又は力ある者の独断により、各人の自由権利を強引にそして勝手に奪われ壊されることがないように維持される、そこに現行の民主主義国家の姿が見て取れる。

 さて、(犯罪防止抑制が最も大切です)、刑事問題で重要なことは、冤罪防止(ひっくり返せば、本当の犯罪者は見逃さない)と意味ある刑罰(社会秩序の維持、更生)であると思う。今の時代、たとえ冤罪だとしても、逮捕されたりすることは致命的な損害を被ることがある。憲法40条で刑事補償が決められているが、法律で定められるそれで救われるのかというと何ともいえない。無罪な人が逮捕されたりする状況は幾らかある(捜査ミスや個人的怨恨、美人局的行為など)と思うが、もし逮捕されても、真実無罪な者には、完全に救済される制度が必要となる。関連して、その者が本当に犯人かそうでないのか、この見極めが刑事事件の最重要事項であろう。不当な逮捕、公権力による住居侵入等を防ぐために憲法33条(逮捕に対する保障。34条は抑留・拘禁に対する保障)から35条(住居侵入・捜索・押収に対する保障)が規定されている。国家権力からの侵害を防止する点で重要な規定といえるだろう。しかし、この世の中、確実に犯罪者を捕獲するのは正当な手続きのみでうまくいくとは限らない。法律規則で対処できない状況のときどうするのか。憲法は国民の権利を守るものであるが、犯罪加害者をも守ることになると、本当に守らなければならない善良な国民が傷つく可能性もある。憲法36条の拷問禁止、38条の不利益な供述の強要禁止・自白の証拠能力等についての条文は国家権力の暴力を防止するため必要なものであるが、これらの抑制が危険な犯罪者を取り逃がすことになる可能性もある。何を守るのか、力を使う側の抑制も踏まえ、人間というものを理解し、犯罪を許さない体制の構築が必要となろう。憲法の規定が犯罪者を守ることになるのなら、その改変も考えるべきである。加えて、警察裁判等の制度システムの再構築・進化も必要となっていくことだと思う。矛盾は改めて正しくすることができる。
 そして…犯罪を犯した者には、それ相応の刑罰を執行されなければならない。このそれ相応というのは、ある意味、社会秩序を維持するために必要がある範囲。本来なら、等価交換、死には死を犠牲には同じ程度の犠牲を刑罰として与えるのが理にかなっているかもしれない。だけど、犯罪行為の中には、情状酌量の余地を考えるべきだろうし、罪の償いを求め、社会貢献を望む者には立ち直るきっかけを与える必要もあろう。結局は、法治国家の場合は、法律ー法律制定者の考え方だろうが、最低限、刑罰は真実の被害者は救われ、真実の加害者は罪を償い、更生させるものであってほしい。現状は、手続き上のことも含め、加害者を保護し過ぎではないのかと思われる。幾らかでも保護されているということは、それだけ甘えを許されるということでもある。犯罪加害者にもそれなりの人権はあろうが、自ら他の人権を侵害した人間である。その侵害に応じて、犯罪加害者の人権も当然制約を受けるべきであろう。
 39条の訴求処罰の禁止・一事不再理等は法的安定性、秩序維持のために必要な規定だと考えられる。

  個人的に現状を思う中で、おかしいではないのかと思う所は、1刑事のあり方⇒その者が本当に犯罪を犯したかどうかはきっちり裁判で判断されるべきかもしれないが、現行犯や犯罪加害者に間違いない場合は相手の主張を聞く時間は与えても、すぐさま刑罰の決定(及び執行)はできないものか。法律の手続き上の手助けは別として、自分の行為の弁護は本人がするべき。加えて、刑法39条(心神喪失及び心神耗弱)の規定は必要ない。また、刑法41条にあるような責任年齢の規定や−少年法規定も必要ない気がする。年少者には、それ相当の更生できる機会は必要だが、罪は罪に変わりなく、罰せられることまで否定されるべきではない。
 2 時効があること⇒逃げ切りは許されるべきではない。警察内部での捜査に関しての時間的限界の規則はあっても仕方がないが、非情な犯罪を時効によって免除されるのはどうだろうか。時間的なことは、情状酌量の中で考えるべきで、一定以上の犯罪には時効をなくすべき。 
 3 刑務所等で犯罪者のために?税金が使われているのは…。例えば、たまに新聞等で見るが、刑務所の方が食事もあって…なんかは舐められている。そういうのは犯罪の程度によろうが、自給自足的考えで行うべき。加えて、与えることになる刑罰が本当に更生の意義があるのだろうか?人によっては、罰金、懲役等で反省し同じ過ちを起こさない人もいようが、皆そうとは限らない。法律は画一的である必要性もあろうが、多様な犯罪者には、多様な方法で対処されなければならないと思う。現行憲法では踏み込めない部分もあると考えられるが、犯罪を抑制、同じ過ちを二度と起こさないようにするには、つよく踏み込んだ手段も必要であろう。
 4 悪事を見逃さない体制を。例えば公務員の公金私用に見受けられるが…時効にも関連するが、過去のことでも、強く取り締まり罰することができるシステムの構築が必要である。国家、身内に甘い…そのように見えるのは、特に国民民主主義では間違っているとしか思えない。社会の腐敗の温床は、公務の位置に居る人に多いだろうと。国民の手で公務に位置する人を取り締まる制度が必要なのかもしれない。
 他、色々と思う点はあるが、何かと法律を変えることでより良くできる点は多くあると思う。変えることもできるのが、罪刑法定主義にある利点でもある。もし憲法の1規定が変化を妨げるものとなるのなら、意見を重ね、変えていくことも大事だろう。この刑事犯罪の事項は、人間そのものの問題でもある。何が最も良いのかは一概には言えないし、一個人の意見で決まるものでもない。それでも、真面目に優しく生きている人が守られるそんな社会であって欲しいとそのためにあるべき刑事制度を憲法を含め考えて行きたいと私は思う。

(*2008年5月1日 )

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     第21回目                        憲法を読むパート10

  個人的観点で?憲法を読むパート10です。
 憲法41条からは、国を治める−政治に関しての根底的事項の内容となっています。前回の刑事関連と同様、その国の指標となるべきものでありますが、今ある憲法事項が本当に最良な仕組みなのかどうかは、正直言って判断難しいところがあります。その社会集団の思想や生活環境によっては、今の日本のような議会制民主主義、三権分立制度がより良く統治するのに相応しいかもしれないし、過去にあった君主制のほうがその社会集団を治めるのに優れている可能性もあります。人の性質、生活環境も合わせて、何が最も良策かは、人類の永遠の命題かもしれません。

  憲法41条「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
  憲法42条「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。」
  憲法43条「@両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。A両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。」
 主権者である全国民を代表する者たちで構成された「国会」が国権の最高機関となっている。国権の最高機関と言っても、行政内閣、司法裁判所が国会に逆らえないというわけでもないだろうが、民主主義−国民主権としてその国民の代表者で構成された「国会」は、国権の中心的存在であることは否定しようがない。その国権の中心的存在の「国会」には、法治国家にとって重要な、立法権限がある。法治国家にとって、法律がその国を治めるルールとなる。そのルールに従って、行政も司法もまた一般社会生活も行われている。行政も司法手続きも法律に反した行為はできない。その法律を制定できるのは、全国民の代表者で構成される「国会」だけなのであるのは重要なことであろう。
 現行は、「国会」は衆議院と参議院で構成される。そして、その両議院の議員は、全国民を代表する選挙された人であることを憲法上規定されている。
 国民主権、その国民が選んだ者が、政治を執り行うことは間違っていない。が、「選ばれた人」は全国民の代表者であることを忘れてはならない。全国民ということは、一国民のためだけの代表者でないということだ。一部だけを優遇し、それ以外の国民を苦しめる者に、「国会」議員の資格はない。すべてにとって最良となる政策を行うのは難しいが、それでも、皆が納得できる政治を行うことが、全国民の代表者で構成される「国会」に求められている。
 
 憲法44条は議員及び選挙人の資格は法律でこれを定めて、その中で差別的取扱いをしてはいけない旨、また45条、46条は衆議院議員、参議院議員の任期、47条は選挙に関する事項は法律で定める、そして、48条は両議院の兼職禁止の事項という内容になっている。

 国会のあり方、その中の衆議院・参議院のあり方、また議員のあり方など、今まで行われてきた歴史の中、考えるべき点はあると思う。任期、選挙資格についても長期間の権威集中における腐敗化を防ぐために、例えば3選禁止の規定や、選挙区を決めて、そこから議員を決める制度(議員は全国民の代表者として行動しなければならないはずなのに、この場合、一部の地域のために選ばれた人になるのではないのか)はどうなのかなど、思うところは幾つかある。選挙については法律で定めることになっているので、法律の改正によって問題なる部分に対応できる箇所もあろうが、選ばれる者がその法律を作るということは、悪い見方をすると、自分たちの都合の良いように法律を作り変えることもできるということである(全国民の代表者である者が、個人の利益のために国権の地位を利用することは本来行われてはいけないことだが…)。「国会」は、国会を構成する議員は、一部のためでなく、全国民のために動かなければならないもののはず、現制度がそういうことを徹底しているのかというと疑問に感じてしまう。民主主義は、その社会国家の民衆全体のために行われるべきもの、政治の地位に就く者だけでなく各国民一人一人がその意識がないと、民主主義の本来の意義は失われてしまうかもしれない。ある意味、国民に民主主義を遂行する能力がなければ、現在の選挙による代表制民主主義は欠陥住宅のように重要な所が欠如し、最悪崩壊してしまうものになるかもしれない。

 「国会」の議員は、国家のために、国民全体の代表者として政務に就く。国民代表者という地位にある国会議員は、その任務を十分に果たすことができるように、一般の国民にはない特権が憲法で定められている。49条「両議員の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。」特権、50条の不逮捕特権、51条の議院で行った演説、討論、表決についての院外で責任を問われない免責特権がある。これは、国民の代表者であることから認められるもので、その議員となった一個人のためにあるものではないと考える。全国民の代表者であることが、一部のためでなく全体のために職務を行うことが、特権を得る必要条件ではなかろうか。特別な権利があるということはそれだけの特別な義務があることを忘れてはならない。一般人にはない義務を負うことが、特権を持つ代表者としての責務であろう。

(*2008年5月27日 )

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      第22回目                     憲法を読むパート11

  個人的観点で?憲法を読むパート11です。
 憲法52条からは国会の仕組みに関しての内容になっています。

  憲法52条「国会の常会は、毎年一回これを召集する。
  憲法53条「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議員の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 政治の場となる国会を、毎年行われるのは当然のことである。国会法によると、毎年一回行われる常会の会期は、百五十日間とされている(延長することができる)。国会議員も人であり、必要な休息また政治を行うための情報調査、学習のための時間も必要になってくる。とはいっても、社会は日々動いている。その変化に対応するために、政治もまた日々動くのが必要になってくる。言い方を変えれば、政治に止まるときはない、ということである。憲法によると、臨時会を開くこともできるので、国会におけるはっきりとした政治的停滞は起こらないと考えたいが、臨時会は内閣等が動かないと開催しないという見方もでき、54条の内容も含める(任期に伴う選挙時にもいえる。選挙は、主権者の国民の意思表示の場であるという民主主義国家として重大な意義がある。しかし、政治も生き物であり、立法的立場から緊急に対応する必要性があるときの行動原則は要求されると考える。)と、状況によっては国会による政治的停滞が起きてしまう。政治を行う「行政」は国会に関わらず、継続されるのだとしても、法治国家……法律をもって作用している国家としては、国会の活動が止まるとその状況に応じた法律の制定もできなくなり、うまく国家が働かないこともありうるわけだ。
 54条によると、衆議院が解散すると参議院も同時に閉会となり、国会活動が止まるとしても、緊急の必要があるときは、内閣は参議院の緊急集会を求めることができることになっている。これにより、国会による政治的停滞はできる限り起こらないようになっているように見えるが、問題として、54条による衆議院の解散に伴い、緊急集会を求めることができる内閣自体の活動も弱まる可能性が高いことである。その原因として、内閣の長である内閣総理大臣は、国会議員の中から選ばれること、その者が衆議院議員の場合は、自身の選挙のための行動をしなければならなくなり、内閣運営どころではなくなる可能性もある。行政と立法は明確に分けられてこその三権分立だと思うのだが、行政の主体である内閣が、ある意味、国会の動向に左右されてしまうところに現憲法には問題点があるのかもしれない。⇒行政権が立法権と明確に分けるために、行政権の長は、国会と別に選ばれるのが正しいのではないかという気がする。現行の、国会……その中でも衆議院に依拠して存在する議院内閣制にも良い点はあるだろうが、内閣総理大臣が国会の内情に大きく影響される可能性が高く、見方によっては、内閣総理大臣自体が衆議院のために動く手駒になってしまいかねない。内閣の判断によって、衆議院の解散ができるのだとしても、国会……衆議院の内情に影響される内閣総理大臣は、国家の長としての見識からでなく、衆議院ーそれに属する政党に左右され、結局は、内閣の判断でなく、衆議院の判断で解散するかどうかを決められてしまうのではないか。それは、国会による行政権への侵食ともいえ、三権分立の基盤が崩れてしまう。


 憲法54条「@衆議院が解散されたときは、解散の日から40日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から30日以内に、国会を召集しなければならない。二項以下略」

  衆議院解散総選挙後、国会が召集されるが、その召集により内閣は総辞職となるので、この国会の召集の目的は主に、内閣総理大臣の指名(新たな内閣の成立)のためにあるといえる。選挙後による民意に反映された内閣ができるという利点もあるが、行政と立法(内閣と国会)との間の曖昧性から、三権分立にあるべき力の均衡が崩れてしまう可能性がある。なお、この54条により召集される国会は「特別会」という。ちなみに、この特別会と臨時会(その会期は両議院の一致の議決により決定。一致しないときは、衆議院の議決が優先)は、常会と同じく会期の延長ができる(国会法によると、常会は1回だが、臨時会、特別会は2回まで延長可能)。


 憲法55条「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の資格を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
  選挙や当選など選挙に関する争訟は、裁判所の権限とされているが、憲法44条にある法律で定められる議員の資格に関する争訟は、各議院にその裁判権があることになっている。選挙違反等、違法な方法で当選したのではなく、正当な手段で国民によって選ばれた人と言え、その議員の資格を失わせるには、国民の意思……その国民を代表する者で構成される議院で判断するのに意義があると考える。


 憲法56条「両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。A両議院の議事は、この憲法に特別の定めがある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。

  議事を開き、議決するのに必要な構成員の最小限の主席者数である定足数及び、議決に必要な票数の数は重要なもので、憲法上規定するのは当然のことであろう。その必要数の値が妥当かどうかは難しいところがあるが(例えば、少ないと、一部の者による恣意的運用がされやすくなる。多いと、決まるものも決まらなくなる恐れがあり、進行が鈍る。)、現憲法では、総議員の三分の一以上の出席、その出席者の過半数(特別の定めの場合除いて)を求めている。⇒結局は、多数決制の価値にある。多数決の数が多い方が必ずしも、良いとは限らず、少数意見の方が場合として最善のときもある。「善鈞(ひと)しければ衆に従う」(どちらも良い意見のときに多数に従う。良い意見の持ち主は多数のなかの主である。)『宮城谷昌光 著 「子産」(講談社)より引用』 (とても印象に残った文章だったので…)、まさしく名言だと思う。


 憲法57条「@両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。A両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。B出席議員の五分の一以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。
   国民主権……主権者である国民に会議を公開するのは、国民の知る権利の観点からも必要である。とはいっても、国防、秩序維持のためには公開するのを良しとしない場合もあろう。原則公開は国民主権として当然であるが、必要となる場合を考え、秘密会とすることができる規定はいると思われる。

 憲法58条「@両議院は、各々その議長その役員を選任する。A両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、主席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
  議院の適切な運営のために、議院の権能として、役員の選任や議院規則の制定の権限がある。どのような組織でも、まとめる者がいなくて、各自が好き放題したら、集団組織として成り立たなくなる。やはり、組織の秩序を維持するためには、まとめる者や組織内の決まりが必要になってくるわけだ。
  また組織内部での浄化作用の一つとして、議員を懲罰することができる。選挙によって選ばれた人であっても、時としては議員として相応しくない者もいるだろう。議会を混乱に巻き込む、政治を混乱させ、政治を停滞させないためにも、場合によっては、除名することも必要となろう。


(*2008年6月30日 )

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      第23回目                この先の家族に関する法律について考えてみる

  「憲法を読む」はまだ続きますが、気分転換として、未来の…というのか、個人的にこういった家族法体系ならいいのではないかということで考えてみたいと思います。
 家族に関する法律、民法の第四編の親族の大まかな内容は、親族の範囲などについての総則、婚姻に関して、親子、親権、後見に関して、扶養とそして相続 となっています。各自、細かく見ていくことはせず、こういう制度ならどうなのかと個人的意見として述べていきます。

 民法の第四編 親族 第一章 総則では、まず親族の範囲に関してから始まる。家族として、親戚としての繋がりは別として、親族であるとどのように法律の影響−言い換えれば、権利や義務を持つのか。本当に大まかに見ると、扶養扶助と相続が親族であることに大きく関わってくるように感じる。勘当(親子の縁を切る)というのはあるが、法律的に、親子の縁ー血族親族の縁を切ることはできない(そういった法律がない)。養子や結婚など法的の結合による場合は、縁を切ることも可能だが、血族の縁はある意味、一生関わってくることになる。親族であることによる懐疑を考えてみると、例えば親族付き合いの面倒さ、法的には、扶養義務、相続権利などであろうか。例えば、扶養は、直系血族及び兄弟姉妹は互いを扶養する義務がある(特別な事情がある場合など、三親等内親族間も)となっている。相続も一定の親族には権利が発生する。家族、親族が皆仲良く助け合って過ごすのなら、正直言って、問題にならない。仲良くできるのなら、例えば相続なんかでも相続分に関しての法律上の定めがなかったとしても争うことなく話し合いで十分決めることができるだろうし、その他、皆が家族の縁を大事にし、助け合う意識のもと行動できるのなら、法的な援助も最低限なもので大丈夫だろう。しかし、人は十人十色、特に欲が蔓延する人の社会では、自分勝手な行動を取る人も現れる。場合により、家族親族であることが、苦難をもたらすことがあるわけだ(加えて、身近な者であるがため、通常より憎悪の念を抱き易い)。どんなに苦しくても、血族親子の縁を切ることはできない。それでいいのかそうでないのかは、本当に難しいだろう。人は繋がりをもって成り立っているわけだから、また、親族の法律も互いの情と信頼を考えてあるわけだから、そのような縁を機械的に切断するのがいいのだろうか。個人主義が蔓延しても、行く付く先(最後に安心できる場所)は家族のもとではないのだろうか。ちょっと哲学的な内容になったが、その実情によっては、扶養義務については家庭裁判所の判断で、そして相続の場合は相続権の剥奪(相続廃除)などで処理することはできることは挙げておく。

 婚姻への内容に入る前に……最近は、無戸籍の話題がたびたび見受けられる。出生時に届けるべきその子の親(社会の性の乱れも関係する)にも問題はあるかもしれないが、民法や戸籍の法律体系にも考えるべき点はあるだろう。国家的に各国民を把握するため、また各国民は身分関係を証明するための、(実情はどうであれ)国民一人一人に戸籍を持たせる制度は考えられないか。現行の戸籍法を見ると、「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及び氏をおなじくする子ごとに、これを編成する。−」とある。家族を重んじる社会でなら、家族というものに馴染めない人以外では、何ら問題ないのだが、これからの(更なる個人主義的風潮)を踏まえて、一戸籍一組の夫婦のあり方から一個人一戸籍へと制度を変えてもいいのかもしれない。

(一個人一戸籍のイメージ) **個人的制度からの解釈
*戸籍イメージ(例えばこういう感じで)

氏  名                               *1

性別

○年○月○日出生

父 ***   *2

母 ***

出生時の本籍  △△                           *3

現在の本籍  出生時の本籍と同じ                     *4

(身分関係の推移)            

○年○月○日 出生。

○年○月○日 ◎◎と婚姻。

○年○月○日 ◎◎との間の子◎出生。

○年○月○日 ◎◎との間の子●出生。

○年○月○日 死亡。

                                     *5

*1  婚姻等による氏の変更においては、身分関係の推移または別途、氏の推移の項目で「(変更事由)により、○へ氏を改める」と。*1には現在の氏、以前の氏は氏名下に欄を設けるか、氏の推移の項目中に。名も同様。

*2  父母は届出による。原則、父母両者の記載ある届出をするべきだが、(特に父親が)判明しないとき(法的親子関係の仕組みは親子制度のあり方で考えてみる)は無記名でも良い(判明した後に別途届出)。なお、出生による戸籍届出義務者は原則、親または出生に関わった人(←届出義務者などは、現行戸籍法通りでも良いと思う。その氏名を考える時間も必要なので届出期間は、現行のように14日が無難かな)。確実な届出を遂行するには、色々と工夫が必要だろう、それはまた。
 養親の場合は、別枠(養父など)で記載。

*3 出生時の本籍(個人を確定するために重要)。一般的には、親と同じ本籍か。
*4 転籍などによって、本籍場所の変更がある場合は、その旨(何度も本籍を変更する場合に対応して、別途、本籍の推移の項目または専用の登録簿を)。

*5 その一個人に起きた身分関係の推移を全部記載。一個人一戸籍として、戸籍取得は1回のみですむ。
*6 個人の特定のための、番号記載も考えられる(背番号制のように見えて反感意見もあるだろうが)。

 居住関係を公証する住民票に関しては、現行、「個人を単位とする住民票を世帯ごとに編成して…」とある。住居との一致が可能な制度で、これは身分関係と関係なく、届出、登録できるのなら…。
 なお、戸籍も住居も全国ネットワークで繋ぐことができれば、手続きの面倒さは減るだろう(現状の住基ネットも管理者への不安があるのだろうけど。人員がたいして必要ではないというメリット?もある)。


 次に、婚姻制度について考えてみる。
 個人的には、結婚登録制度を考えたいが、その登録制度は、私たちは結婚しますよ、というのを登録するのではなく(これだけでなく)、私たちが二人で取り決めた結婚の約束事を登録して結婚致します、ということである。海外にも似たような制度があるかもしれないが、個人的に考えて、次の二制度による結婚制度(選択制)を掲げてみたい
 一に夫婦の一体化を重要視する「法婚」(法という言葉を入れているのは、夫婦の一体化を要求するが、それに伴う法律上の援助が豊富。見方を変えて…夫婦の一体化を実現するため、強く法によって縛られる。)。夫婦の一体化というのは、いわゆる、健やかなときも病めるときも…永遠の愛を誓います…生涯を一生共にします。ということを現実的に遂行するためのもの。だから、財産的には、夫婦共有が原則(ちなみに現制度は、夫婦別産制が原則的だと考えられる(内部的には、共有的なのかもしれないが))、そして、基本的に離婚が認められない。ただし、生涯の夫婦の継続を続けてもらうために、法律的な援助を多く付与しようというもの。
 二に各夫婦のライフスタイル(及び思想)によって、夫婦のあり方を取り決められる(取り決めて結婚する)「パートナー婚」(パートナーという言葉を入れているのは、大きく見て、必ずしも「夫婦」であることを求めるものでなく、当該二人がパートナーとして過ごし易い形を選んでくださいという見方から)。二人で取り決めた約束事を、登録することで「パートナー婚」は成立する。つまり、その婚姻の内情は二人で約束した内容で決まり、足りない部分だけを法律で決める。極力、複雑化を避けるために、その約束、契約内容は形式化されており、そこから選択して決めてくださいというもの(ただし、公序良俗に反しない範囲で、形式化したもの以外の特別な規定を入れることができるのは当然のことです)。パートナーとして過ごし易い形を選んでくださいというものなので、氏の一致を要求することはなく、また、二人で取り決めたことなのなら、関係の解消も非常にしやすくなるのが特徴である。
もしかしたら、二の制度だけで、すべてを把握できるかもしれないが、あえて、夫婦というものの関係性を重要視して、まさしく生涯を共にすることを二人が誓い遂行する、その決意を表現してもらいたいという考えから、第一の制度を掲げた。
その二人の実情によって、どちらの制度を選択するか、またその制度内でどのような形を取り入れるか、二人の思いの一致を大切にしたい。

**問題点は、パートナー婚の場合、例えば、取引(第三者)の扱いについて。登録内容(一般的な部分)は見易くしておくべきか。

*婚姻制度イメージ(例えばこういった感じ)

 

○法婚

○パートナー婚

婚姻要件

法律に定める通りで厳格。

要件は緩やか。条件付きだが自由?

届出登録

当事者出頭主義。

原則、当事者による届出(代理OK

氏の一致が必要。

氏の一致は必要ない。

夫婦財産

原則、夫婦共有制。法律で定められる。一定の範囲で登録時に選択できる(形式化されたなかで選択)。

契約主義。夫婦別産制が基本。

婚姻登録時の契約による(形式化されたなかで選択。+公序良俗に反しない範囲で、特別な取り決めももちろん可能。)

A条件付で、契約内容は変更できる。

制度変更

無し。「法婚」は夫婦の一体化(一生を共にする信念)を厳格に考えている。

法律で定める年数経過後(最低10年は必要ではないかと考える。)は、「法婚」へ変更できる。

夫婦紛争

調停主義。*別居等による婚姻費用請求なども調停を通さないといけない(調停は、円満解決できるように、夫婦関係を継続できるよう努力しなければならない。)

契約時に定めた内容で、当事者の話し合い。話し合いができないとき(契約の履行がされないとき)は、調停等。

解消(離婚)

@     調停主義。調停では、夫婦の継続ができるよう努力し、どうしても関係が修復できずかつ法律に定められた事由に該当する場合に離婚が認められる。

A     財産分与等も、調停の場で決定される。

B     一生の夫婦関係の継続を望んでいる「法婚」は、解消する場合は、秩序罰としての罰則の適用がありうる(特に、違法的な離婚原因を作った者には)。

@     当事者の話し合いで。話し合いができないときは、調停等(契約時の取り決めによっては、調停等が必要ない場合もある)。離婚事由は、法律に定められたもの+登録契約時に決めた範囲。緩やかに判断。

A     財産の扱いは、契約で定めた通り。

子供

婚姻中の子の扱いに関して違いはない(パートナー婚、子の氏には注意)。

相続

夫婦間、法律で定められたもので優遇有り。*遺言があると優遇効果が上がる場合も。

夫婦間、契約で取り決めたもので。*遺言は可能(契約に反しない範囲で)。

その他

パートナー婚より、保障・税金の面で優遇。

一般的に、保障・(税金)夫婦控除がある。

**機会があれば、細部の内容に関して付け加えたいと思う。

この先の家族に関する法律について考えてみる第二弾(親子制度のあり方を考えてみる等)は、またしてみたいと思います。

なお、今回のことは、私個人の考えなので、現実的には今のところ(みんなでこれからのことを考える機会があればいいですね)まったく関係ありません。

(*2008年7月29日 )

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      第24回目                       憲法を読むパート12

  個人的観点で?憲法を読むパート12です。
 引き続き、国会に関しての内容です。衆議院の優越の箇所を見てみたいと思います。


 憲法59条「@法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したときに法律となる。A衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。B前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。C参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。」

 憲法60条「@予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。A予算について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取った後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

 憲法61条「条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。

 *憲法69条 内閣総理大臣の指名「A衆議院と参議院とが異なった指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名を議決した後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

///////////
  政治の…行動の仕組みを決める法律の制定、各行動の規模を決める予算の議決、国際間の取り決めである条約の締結についての承認、国家の責任者…行政の長を指名する権限など、なるほど「国会」が国権の最高機関だということがここでも強く見て取れる。国民の代表者であるとされる選挙で選ばれた人が構成員の国会。国民主権、その代表者である者たちで構成された国会が、国家の中核を担うのは当然のことなのであろう。

 上記の条文にあるように、最終的には衆議院の議決が参議院の議決に勝る方式を取っている。衆議院議員の方が任期が短く、また任期途中でも解散により改めて「代表者」を選出される仕組みとなっており、衆議院の方がより”民意”を反映していると思われることから、この「衆議院の優越」の仕組みがあると考えられる。また、各議院の意見の相違により(紛争対立で否定議決を取ることも考えられて)、国会運営…政治が停滞しないように、最終的な決定方法を憲法が示しているという理由も考えられる。
 反面、考えられる欠点として、参議院の意見を蔑ろにして衆議院の議決だけで決定できてしまうこと、極端に言えば、参議院がなくても衆議院の中だけで決定できてしまうことである。参議院というもう一つの協議場があることで、より意見が煮詰まり、一つの場所で考えるより良い判断ができることが考えられ、また衆議院の暴走を監視する意図でも、参議院の存在意義がある。極端に考えると、そんな参議院の存在意義を否定してしまうほどの欠点がこの「衆議院の優越」に内在している。
 憲法54条の「A衆議院が解散されたとき、参議院は同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急があるときには、参議院の緊急集会を求めることができる。⇒B緊急集会で取られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後10日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失う」というところから考えても、衆議院が参議院の上位機関であることが見て取れる。対立による停滞を起こさない理由でも、そういう上下の差が有ること自体は問題はないが、参議院が衆議院と同じ仕組みで構成員を決定しているところから、((衆議院議員選挙と違うときに選挙を行うことで、その時の”民意”が反映ができる考えもできるが、))政争の具として利用されてしまうところがあることも否定できない(参議院というものがなくても、衆議院の中で選挙の時期をずらす仕組みをとったり、人数を調整することで、現行の議会選挙と近い民意の反映方法が取れる)。
 参議院に、衆議院の監視機関という意図があるとするのなら、同じ選抜方法では状況によっては(一方の政党派閥が両議院の数を取れば、そんな監視機関の意図も失い、好きなようにできることにもなる)有名無実化しかねない。参議院のことを「良識の府」と敬称されるが、良識を持って衆議院を監視する意図が参議院にあるのなら、政党派閥に関わることは、その中、「良識」なものから外れた行動をするかもしれない。各国民、それぞれの十人十色の思想はあるが、代表者としての「良識」の見方ができる人が参議院の構成員として相応しいと思うが、だからといって、より良い選抜方法があるのか、と聞かれると難しい。法の下に平等である日本国憲法内では、一つのやり方として、ある年齢以上(選挙資格のある者となるだろうが)の中からランダムに指名して決めるや、ある政治資格を取得し名簿に記載した者からランダムに選択するという方法(こちらは年齢を問わない。正直言って、成年者の有無が政治の能力と直結すると思わない、”未成年者”でも優れた政治力を持つ人はいると思う)が思いつく。どちらにせよ、政争の具として利用(例えば、票取り政治にならないように)されないような仕組みを考えなくてはならない。

 衆参議決の結果が異なるときの上記の条文を比較すると、法律案の議決においては、衆議院出席議員の三分の二以上の多数による再可決を必要という他にはない特別決議を求めている。予算や内閣総理大臣の指名は主に政治内政の事柄、条約は主に政治外交の事柄であるが、法律は国民の権利義務に直接関係しやすい。また、法治国家であり、公務関係・公的機関は法に従って行動するので、法律の仕組みが行政等に大いに関係するといえ、それも国民の生活に直結し易いイメージがある。予算等も、国民生活に影響を与えるものであるが、当該政治担当者の方策の意味合いが強いと思う。国民の生活に直接影響しやすい法律案の制定においてより厳しい条件を付加する必要性はあるだろう。



 憲法62条「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
  立法等行うにしても、当該国政の状況がわからないと、制定した法律も見当違いのものとなりかねない。三権分立、立法、司法、行政…法律等に従って、実際的に政治を行うのは行政であり、立法府としては、その行政の中身を知らないことには、正しい活動ができなくなる。国政に関する調査、証人の出頭等求めることは、ある意味、立法による行政への干渉ともいえる事柄であるが、立法として業務を遂行するに調査情報を収集するのは当然必要なことであり、三権分立、行政立法の独立を侵さないようにするためにも、こういった事項は憲法で規定することは大切だと思う。
 証人等の出頭を求めることができるが、三権分立、司法の独立の関係で、刑事司法関係についての−裁判作用に関する調査は認められないとされている。「札幌高判昭30.8.23判例 国政調査は、本条所定の証人尋問、記録の提出要求以上の強制力を有する住居侵入、捜索、押収のごときは許されていない。けだし、国政調査権は、刑事司法活動でなく、国政の調査を目的するものであって、これを逸脱するような強力な手段はこれを許容することができないからである。」


 憲法63条「内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
  内閣総理大臣、国務大臣が説明する義務があるのは当然のこと。ただ、行政が立法作用に参加することになるので、憲法による規定は必要でないかと思われる。なお、内閣総理大臣及び過半数の大臣は国会議員の中から選ばれることになっている。

 憲法64条「@国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。A弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
  憲法64条は、弾劾裁判所について。司法権の独立のため裁判官は憲法上身分の保証をされていて、罷免するには憲法の条文記載の方法による。その一つが、この「公の弾劾」による場合である。三権分立は各自独立している必要があるが、それに加えて各自が他所を監視監督して一方の肥大化(暴走)を阻止しなければならない。弾劾裁判所は、立法による司法の監督作用としての意義があるのだろう。


 次の「憲法を読む」は、65条から内閣の事項を見ていきたいと思っています。

(*2008年8月30日 )

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    第25回目              この先の家族に関する法律について考えてみるパート2

 前々回(23回目)の続きと言いますか、個人的にこういった家族法体系ならいいのではないかということで考えてみたいと思います。
 今回は「親子関係」を中心に考えてみたいと思っています。ここに記載する内容はあくまで個人的な意見でありますことをご留意ください
*ここでの内容は、前々回の(個人的制度)内容と連動しています。

  親子に関する法体系での重要な事項は、親子関係をどうのようにして決めるのかと親子の権利義務(親権)の関連だと思う。この二大事項を中心に考えていきたい。
 まず、親子関係をどのようにして決めるのか。現行民法では、自然血縁関係を基礎に、父親の認定として、民法772条の嫡出の推定と認知の制度がある。母親の認定は、基本的に懐胎・分娩の事実から血縁関係をはっきりできるからさほど問題にならない(問題になる場合として、誰が産んだのかわからない遺棄された子、代理出産の場合などが考えられる)。自然血縁関係にない場合は、養子縁組の制度となるが、こちらは法律に伴う親子関係の創設であり、整った養子縁組の法律がある現行民法の内容でも特に問題はないと思われる(現行でも、未成年者の養子は、原則、家庭裁判所の許可が必要となっているので、子の福祉に反することになる可能性が少ない)。

 根本的な話として、(法律上)どのような場合に、親子であると認定するのか。つまり、自然血縁関係で有ることが親子であることの認定とするのか、自然血縁関係有る無しに関わらずその子を育てたいとする親の意思に従って認定する(出生当時。養子とは異なる)、という手段も考えられる。自然界的な見地からすれば、子を誕生、産んだ者がその子を育成する親として認定するべきであろう。出産まで至る経緯や感情を考えてもそれが自然だ。ただ、親となる者に産まれた子を育てる力(資産の問題などを含めて)がなければ、実社会では生きていけない可能性がある。自然界の理からみれば、そうやって親が子を守れず(育てられず)、子が消えていくのも仕方がないのかもしれないが、人間社会ではいくらでもカバーの仕方がある。その一つとして、子が欲しくて、育てられる力がある者が、その子を育てる親となる。……ここではあくまで法律上どうするのかという話である。だから、自然的、一般常識的に考えれば、産んだ、誕生させた男女がその子供の親であることに間違いはない。(自然法則に抱合される人間の…社会ルールの一つである)法律もその自然関係に従うべきであろう。だから、第一的には血縁親子が、法律上の親子として認めるべきである。……このあたりの問題の考え方として、現行民法でも特別養子の制度がある。血縁関係にある親が子供を育てられない場合(子の福祉のために特に必要性が認められる場合)などに、その血縁親子の親族関係を終了させ、養親となる者の子として、養親の血族間における同一の親族関係が生じる内容。万が一、実親に育てる力がない場合でも、こういう手段が規定されているわけなので、突っ込んだ話はせず、とりあえずこの話はこの辺で終わっておく。
 

 さて、自然血縁親子を第一的に法律上の親子として認定するとして、どのような方法で血縁親子であることを確認するのか。
 その前に、考えるときのキーワードとして次の三つを挙げておきたい。「法的安定性」「子の福祉」「真実の事柄」。「法的安定性」法律と言うルールがあるにしても、一個人の感情でどうとでもなるというのならそれはルールではない。法の下の平等とあるように、等しく法の恩恵を受ける変わりに、等しくその法を適用されなければならない。法律に規定されていても、勝手にその規定と違った運用をされるのなら、その法は有名無実化しルールの枠から外れる。法的安定性を維持しなければ、守るべき秩序が壊れ、国家としての社会は成り立たなくなる。「子の福祉」大人(親)の都合で勝手に監護養育者が変わったりするのは、子の成長に翳が帯びる。法の安定性もさながら、子の生活環境の安定性と安全性を守る必要がある。「真実の事柄」遺伝的見地から、誰が真実の親なのか。真実の親でなくても良いのか(現行では真実の親でない可能性も少しながらあり得る。嫡出否認権の制限から←法的安定性、子の福祉から仕方がないのかもしれない)。人間社会では、場合により、真実が仇となることがあることも幾分考慮する必要があるだろうか。

 話を戻すが、自然血縁関係を考えるに当たって、母親は懐胎・出産の事実で基本判断できる。なので、特に考えなければならないのは父親の判断である。きっちりするのなら、例外なく届出前にDNA鑑定など指定された機関で親子であることの確認をした上で父親であることの届出をするべきだと考える。無戸籍の問題と関係するが、(個人的考え。前々回参照。)一個人一戸籍の仕組みとして、出生届での親の事項は確認できる範囲で記載し、父子関係に懐疑があるのなら、戸籍上の父の事項は、問題を解決してから真実の父が判断できたときに、その子の戸籍に記載したらいいだろう。父性推定の規定はあっても良いが、真実を確実にするべく、届出時にきっちりとした父親であることの確認書を添付させるのが一つの手段かもしれない。DNA鑑定(またその他の血縁を調べる科学的手段)が100%正しいかわからないが、指定された機関(指定された機関という理由は、確認書の虚偽性を防ぐため。例えば、母側の恣意的な行為でDNA結果等の父親確認の事項を改変することを防止するため)で、父親であることの結果が記載された確認書に、その内容で間違いない旨の男性、(母である)女性の署名を記述して、届出に添付させる。法律上の一般事項として、「婚姻中に懐胎、出産した子は夫の子と推定」しながらも、父親を確認させる規定を設け、特に婚姻中に懐胎、出産した子でない場合の子の戸籍上には父親の確認書がないかぎり記載しないこと。なお、嫡出子・非嫡出子の違いは全体的に廃止で良いと思う。その子が父親が婚姻関係にない場合の、父親の決定は、現行と同様認知の制度で。任意認知の場合は、同じく確認書を添付。以上が、真実の通り親子関係をはっきりさせる制度の一つと考える。ただ、真実を見たために、夫婦関係が壊れる可能性もあるが、それは夫婦の問題として解決するべきなのかもしれない(養育の問題に関わってくるだろうけど。秩序を乱す行為をした者にはそれ相応の秩序罰的責任を負ってもらうことも考えなければならない)。あと、機械的な確認を求める内容なので感情論として拒絶する人がいるかもしれないが、真実と法的安定性を考えるのなら、仕方のないことかもしれない。総合して、確実な父親の確認がない間は、子の戸籍上の父親欄の記載がないことになる。その場合でも、推定される場合は夫に養育義務があるが、それ以外は確認後、子の戸籍記載の届出後養育義務を発生させるべきであろう(その場合は、父親に一定範囲の過去の養育費の清算をさせるべきだろうが)。

 母子の自然血縁であることがわからない場合、代理出産などの場合は、確認書を添付、確認書には母となる女性と夫となる者がいる場合はその人と共同で「この子は私(母)の子であることに間違いはありません」旨の記載署名を必要とし、責任の一切は私(たち)が負いますという内容にするべきであろう。なお、代理出産などを認めるかどうかは別途の問題として考えるべきだが、どちらにせよ、母となる女性とその相手の男性はその責任の一切を持つべきであろう。一切の責任を持つという内容は、父性の関係にも言えることである。
 子の氏は、(前々回の個人的考えの婚姻制度と連動)、夫婦の氏が一致する場合はその氏だが、一致しない場合は、「パートナー婚」をするにあたっての契約(約束)からその契約内容に従って決定し、結婚関係にない場合(また夫婦でない間の二人がその子供の親である場合)は、基本母の氏を子の氏とするべきだろう(認知により、父親の認定がされた後は、両親の話し合いにより、子の福祉の観点から考えて変更可能とするべきだろう。母の認定もできない場合は、父母先に認定された氏が第一。それもできないような場合、遺児などの場合は、現行戸籍法の通りの市町村長等の手続きによることになろう。実際的には、直接養育する者が子の氏名を最終的に決めることになろう。)。



 親子認定をどうするのかの話は、究極的には、子の監護教育の権利・義務を誰が持つのかに帰属すると考えられる。
 親権は、親の権利でありながら、子が社会の一員として正しく生活できるように育て守る義務が前提としてあることを忘れないようにしなければならない。つまり、子に対する権利もあるが義務もある。子の監護教育の責任が、親…親権を持つ者に第一的にあり、親権に服する間の子の責任は、親の責任でもあることを考えなければならない。
 血縁実親が子を養育する力がない場合は、養親・後見人などが養育することになると考えられるが、法律上において親権を行う者をどのようにして決めるのか。現行通り、父母が親権者。養子の場合は養親が親権者で特に問題はないだろうか。子の戸籍上の父母が第一的の親権者であるべきだろう。が、もし親権を行うことができない(例:現行では未成年者、他成年後見人等も考えられる。また、程度を超えた子を虐待する人も含まれるか)と判断される場合は、別途、養育者が必要となる。(養育できるだけの力がある)未成年者の場合の親、養親となる者がいる場合は、養親等が親権者で良いだろうが、そういった人がいない場合は、終局は(民間施設でも構わないけど、確実な養育環境でなければ本末転倒)公的な施設で育てるしかない。その場合は戸籍記載の実親に親権能力がなくても、養育費の支出などの責任を取ってもらうのが筋だろう。
 親権を乱用するような親には、親権喪失の規定もあるし、現行の内容でも十分対応できる。運用問題で、他の法律とあわせて、もう少し柔軟に対応できる制度を構築するのもいいのかもしれない。親権に服する間の子の責任は、親の責任でもあると書いたが、例えば、子の不法行為責任は親も連帯して負わなければならないという仕組みも考えられる。行動の意味が理解できない年齢の間は、もちろん育成する親に責任があるのは当然だが、現在における小学校高学年、中学生にもなるとおおよその行動の善悪はわかるようになる。民事上は、不法行為の箇所に監護義務者の責任の規定があるが、刑事上(親が指示した場合はことさら)、秩序罰的内容としての刑罰を考える必要性があるのかもしれない(特に秩序を壊すような子の行為の場合。窃盗傷害はもちろん、夜遊び・非行に無関心な場合なども。)。
 さて、子の養育、子の監護教育にとって、その生活環境が何より重要でなかろうか。養育者の生活状態などによっては、健やかに育つ環境でないかもしれない。ただ各家族の生活環境は多々違うのであり、また各家庭の問題として解決できないこともある。子供が健やかに成長できる町作り。国家、行政が子の育成のための環境作りを積極的に行い、監護教育者の負担を和らげる仕組みも必要だろう(例えば、父母どちらでも利用できる子育て施設。子育ての指導や悩みの解決。たまに休みたい親への一時的な預かりなど。行政サービスとしてできる限り無料で、一般的には義務教育に入るまで。今でもこういった施設はあるけど、もう少し積極的に使いやすくして…。)。教育の第一義務は親権者にあるにしても、国家として、少なくとも義務教育の間は等しく教育を受けさせる機会を与えなければならないだろう。だが、現実問題は、義務教育とは言えども、各家庭環境で子供の教育環境が異なる。例えば、お金の有る家の子は、学園環境が他よりもしっかりしている私立学園へ入ることができる。教育範囲は決まっているかもしれないが、教育内容は学校によって違いがあり、各子供の家庭環境などによって教育環境に格差ができる。その格差は受忍しなければならないのだろうか。少なくても義務教育の期間は、平等の教育環境を与えるべく、学園都市の構築を個人的考えとして掲げておく。その学園都市は小さな国家として自治権があり、基本ルールを踏まえて、学園内で独自の警察権と司法権を確立(ルールに反する親や学園外の人間の介入を認めない。)。学則の一部を子供たちに任せ、対処させる。基本、学園都市内の寮生活とし、生活は子供たちの自主性を大事にする。重要な教育は、あらゆる教育機会を与え、できる人はより高い学問を、特別な才能がある人はその才能を伸ばせる仕組みを。例えば、小3までは総合教育として皆同じ、それからは、能力別にまた各個別的に学問を選択できる制度にする。細かく記載すれば長くなるが、教育成長の場として一つの大きな仕組みを構築するのも一つの手かもしれない。*この場合、小中高一貫で制度構築を考えるべきかもしれませんね。
 法律においての親権の内容は、監護教育に必要なものであり、権利関係の問題から現民法でも職業許可権や、財産管理権といった内容が規定されている。父母の関係(対立など)から、監護権と財産管理権は別途の扱いがされることがあり、母親が身上監護権を父親が親権者として財産管理権を持つ場合もある。それでうまくいくなら問題はないが、互いが憎みあい相手の足を引っ張る行動に出ることもあるので、一つとしてはっきりさせるのもいいのかもしれない。養育費等の問題もあわせて、親としての責任をどう考えるか。誠実に親の義務を履行できないのなら、法律上で秩序を制度化するしかない(秩序罰的刑罰の規定など)。


 細かくはまた上記に追加するかもしれませんが、この続き(子の養育にも関係する…扶養の箇所をと考えています)はパート3で続けさせていただきたいと思います。
 「憲法を読む」と並行して続けていく予定です(他の内容も加えるかもしれませんが)。

(*2008年9月30日)

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