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法律連載第6弾           法律への独り言

  ここでは、法律また制度に関して、個人的な考え、意見などの独り言を書き綴ります。
実質「法律連載」とは言えませんが、個々の法律について、条文についての話もあると思いますので、とりあえず法律連載の一つとして始めます。
(*学説や判例と異なる見解を書いてあることもあるので、ご注意ください。

 第1回目   夫婦財産契約について考える
 第2回目   売買と賃貸借
 第3回目   遺産分割と遺言書
 第4回目   賃貸借契約
 第5回目   ネット上の契約について考える
 第6回目   ネット上の契約について考える・続
 第7回目   公正証書遺言による遺言書を作る
 第8回目   個人的に契約書を作成するのに(基本)
 第9回目   熟年離婚について考えてみる
 第10回目  自筆証書遺言について考える
 番外編    遵法について考えてみる
 第11回目  法を読む―外国人との婚姻から
 第12回目  憲法を読むパート1
 第13回目  憲法を読むパート2
 第14回目  憲法を読むパート3
 第15回目  憲法を読むパート4
 第16回目  憲法を読むパート5
 第17回目  憲法を読むパート6
 第18回目  憲法を読むパート7
 第19回目  憲法を読むパート8
 第20回目  憲法を読むパート9
 第21回目  憲法を読むパート10
 第22回目  憲法を読むパート11
 第23回目  この先の家族に関する法律について考えてみる
 第24回目  憲法を読むパート12
 第25回目  この先の家族に関する法律について考えてみるパート2
 第26回目  この先の家族に関する法律について考えてみるパート3
 第27回目  憲法を読むパート13
 第28回目  憲法を読むパート14
 第29回目  憲法を読むパート15
 第30回目  憲法を読むパート16
 第31回目  憲法を読むパート17
 第32回目  憲法を読むパート18
 第33回目  憲法を読むパート19


 第1回目        夫婦財産契約について考える

 この法律連載を始めようと思ったきっかけの、夫婦財産契約について考えたいと思う(『独り言』ですので、です、ますの丁寧語ではありません)。

 夫婦間で、財産に関しての取り決めをしていることは、それなりにあるかもしれないが(あくまで、各自夫婦間だけのルールとして決めているもの)、夫婦財産契約の登記をしているのは、ほんのわずからしい。
 登記の少なさを見ると、実質きちんと夫婦財産契約を結んでいるのも、少ないと思う。別にこの数の多少はどちらでもよい。各自の夫婦が法定財産制を理解して、きちんと選択しているのなら、特に問題はない。

 
 この夫婦財産契約は、民法上の夫婦財産制と異なる財産関係について契約する場合のものである。
 なので、民法の法定財産制でよければ(法定財産制にない財産関係の取り決めをしたい場合を除き)、夫婦財産契約をする必要はない。
 一応、民法の法定財産制のところを見てみる。
 民法の法定財産制の規定はたった3条しかなく、その内容は「婚姻費用の分担」「日常家事に関する債務の連帯責任」「夫婦間における財産の帰属」に関してである。
 この民法の法定財産制の規定と別の取り決めをしたい場合は、夫婦財産契約を結ばなければならないことになる。

 夫婦財産契約だが、民法の規定上、婚姻の届出前にしなければならない(民法755条より)。また、第三者へ対抗するには、婚姻の届出前に夫婦財産契約の登記をしなければならない(民法756条)。そして、管理に関することを除き、婚姻後はこの夫婦財産関係の変更をすることはできないことになっている(民法758条)。
 ということで、婚姻の届出前に、法定財産制と異なる夫婦財産契約をしなかった場合は、夫婦の財産関係は法定財産制によることになる。
 法定財産制を少し見てみるが、「婚姻費用の分担」や「日常家事債務の連帯責任」は、説明がなくてもなんとなくわかると思うが、「財産の帰属」についての民法の規定を、意外と知らない人も多いと思うので見ておこうと思う。
 夫婦間の財産の帰属は、民法762条により、婚姻前に所有していた財産および婚姻中自己の名で得た財産は夫婦各自の固有財産となり、帰属不明の財産の場合が夫婦の共有と推定されることになる。ということは、夫の名で得た給料は、夫の特有財産(夫が所有する財産)であり、妻の所有物ではないことになる。厳格にいうと、妻は、夫婦なんだから夫の給料は私たちの物でしょう、とは言えないということだ。離婚する時、夫婦で築き上げた財産は分け合うということは知れ渡っているが、それに関しては、民法で財産分与の規定があるからである。
 日本の夫婦の財産関係は、夫婦別産制を取り入れたことになる。夫が自己の名で得た財産は夫の物、反対に妻が自己の名で得た財産は妻の物で夫の物でないことになる。(ただ、その財産の取得にもう一方が何らかの形で貢献していたら、幾らかの財産の帰属が認められる可能性はある。)
 婚姻費用の分担義務や、日常家事債務の連帯責任があるので、財産の帰属が夫婦別産制でも日常生活上特に問題はない。
 夫婦財産契約をきちんと結ぶ理由にも挙げられるが、夫婦が正常に仲良く生活している時は、この辺りの法律関係なんて関係ない。必要になってくるのは、けんかになった場合、最悪裁判になった場合である。特に関係が解消、離婚した場合である。
 財産分与で、夫婦で築き上げた財産は一般的は半々で分けることになるが、財産形成の寄与度からみて、差が出る場合もある。過去の判例でも、妻の寄与度は3割程度というものもあり、夫婦だから半分は私の物だとは、財産分与でも必ずしも言えない。夫婦だから半分だ、と確実に?いうためには、夫婦財産契約で、夫婦の財産の帰属を2分の1ずつの共有としておく必要がある。
 「財産の帰属」は、とりあえずこの程度にして、
 夫婦の財産契約の取り決めの例を考えてみると、婚姻中取得する財産は夫婦の共有財産とする(”税金―贈与税”に注意)以外に、共働きの夫婦で「婚姻費用の分担」を各収入の2分の1ずつにする(民法上の婚姻費用の分担は、資産収入、その他一切の事情を考慮して分担となっている)や、日常家事債務の連帯責任を負わない、などがあるだろう。また、夫婦生活上得た財産の管理者は妻にする、なども考えられる。当然だが、契約の内容はどのようなものでもいいわけではない。公序良俗に反する、また、強行法規に反する取り決めは無効となるだろう(例えば、子どもや夫婦もう一方の扶養義務は一切負わないや、婚姻中取得する財産はすべて妻の固有財産にする、などの契約は認められない)。
 先にもあったが、夫婦財産契約をしても、夫婦以外の第三者にその契約を主張するには、婚姻の届出前に登記しなければならない。登記しなければ、夫婦以外の人に対しては、法定財産制と異なった夫婦財産契約について、対抗できない・・・主張できない。
 先にも書いたが、夫婦仲良くしている場合は、夫婦の財産関係、法律上の規定に関して、必要になることはあまりないと思う。しかし、はじめから財産についてはっきりとしときたい男女や、後々のことを考えて、夫婦財産契約をするのも良いだろう。
当然、夫婦財産契約をしたため、後々損をすることも考えられる(婚姻後は変更できないこともあり)ので、法定財産制も含め、メリットデメリットを考えるべきである。

 (*2006年5月30日 )

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  第2回目                売買と賃貸借

  売買契約と賃貸借契約の関係は、法律的に見るとわりと面白いので、今回はこれに関して。
 最初に、賃貸借契約だが、無償の使用貸借と違って、有償で対価的な貸し借りである。日常的には、賃貸借契約といえば、土地や建物の不動産を思い描くが、動産…テレビやパソコンといった物の貸し借りも賃貸借契約の対象である。今回は、土地、建物の賃貸借に限って見てみよう思う。

 「地震売買」という用語がある。「売買は賃貸借を破る」でもよい。
 この用語の意味は、大体こんなものである。
 建物所有目的の土地の賃貸借契約がある。貸主をA、借主をBとし、Bは、居住目的でAの土地を借りてその上に家を建て住んでいた。しばらくして、Aは賃料を大幅に上げることを考えた。賃料を約3倍にすることをBに言う。Bはその金額はおかしいだろうと、反対。ああ、それでは、と、Aは、良い値段でその土地をCに売ることにする。Bは驚いた。土地の所有者が変わったら、もしかしたらこの土地から追い出されるのではないか・・・しかし、Aが提示した高額の賃料では納得できない…。しばらくして、Aは本当にCにその土地を売った。Bが危惧していた通り、Cはこの土地は俺の物になった。あんたは邪魔だ。さっさとこの土地から出て行け、とBに言う。賃貸借契約は、債権である。債権は、排他性がない。債権である賃借権を第三者に対抗できない。つまり、Bは賃借権を、、AB間で結んだ土地賃借権を第三者であるCに主張できない。なので、Cから出て行けと言えば、法的にも出て行くしかないことになる。これが、「売買は賃貸借を破る」だ。Cから出て行け!と立ち退きを請求されると、Bは家を壊して、立ち退かなければならない。まるで、地震で家が倒壊してしまったのと同じ状況になるので、「地震売買」と呼ばれている。

 こうなると、借主は立場がかなり弱いことになる。弱肉強食の世界だ。これでは、問題があるということで、民法でも、賃貸借の登記をすれば、その後その不動産について物権を取得した者、この場合はCに対抗、主張できることになっている。しかし、この民法の賃貸借の登記は義務でなく、別途登記義務を定めた特約がない以上、賃貸借契約の相手側であるAに、その登記を請求することができない。この登記をすることは、Bにメリットはあるが、Aにはメリットがない。なので、A…貸主が自分から進んで登記に応じる可能性は少ないと言えるだろう。なので、この民法上の第三者対抗要件は、ほとんど使えないことになる。
 それでは、借主はずっと弱い立場なので、建物保護法、現在では、借地借家法で、この場合の借主Bを保護している。
 借地借家法10条にはこうある。「1項 借地権は、その登記がなくても、土地の上に借地権者が登記されている建物を所有するときは、これをもって第三者に対抗できる。」
 つまり、Bが、自己所有の建物の登記をしていれば、第三者となるCに、賃借権ー借地権を主張できる。Cが出て行けと言っても、出て行く必要はないということだ(反対に、Bは自己所有の建物の登記をしていないと主張できない)。

 建物の賃貸借でも同じく、借地借家法31条に「1項 建物の賃貸借は、その登記がなくても、建物の引渡しがあったときは、その後その建物について物権を取得した者に対し、その効力を生じる。」とあり、建物の引渡しを受けていれば、その建物の所有者が変わっても、その者に対抗できるのである。
 ということで、Dから借りた家に住んでいたEは、その家をDから買ったFから出て行くように言われても、すでに引渡しを受けてその家に住んでいるので、賃借権を主張できる、つまり、出て行く必要はないことになる。

 このように、一定の借主は、保護されている。一定のというのが曲者だが、法律上、定めた条件をクリアしていれば、保護されるということだ。農地の賃貸借に関しては、農地法で引渡しにより対抗できると定められている。逆にいうと、民法以外の法律で、対抗要件についての定めがない場合は、(賃借権の登記があるのは少ないと思われるので)面倒なことになるだろう。まあ、その場合は、別途、他の法律関係で対処していくことになるだろう(その一つが、駐車場の貸し借り?←駐車場の賃貸借は通常、借地借家法の対象にならないので。)。

 (*2006年6月10日)

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  第3回目               遺産分割と遺言書

 遺言書があるのを知らずに、遺産分割協議したらどうなるか?遺産分割協議後、遺言書が発見されたらどうなるのか?
ふと気になってしまって、手元にある書物六法等を見た。今回は、この話。

 通常、遺産分割は、第一に遺言の指定があればそれに従い(指定分割)、遺言による指定がなければ、共同相続人間の協議によることになる。つまり、遺言書があれば、その内容が優先されるわけである。
 さて、遺言書という物があるということを、相続人らが必ずしも知っているとは限らない。たとえ、公正証書遺言の方式によって作成されたものでも、相続人らが知らなければ、知らないまま過ぎてしまうことも有りえる。
なので、遺言書があったとしても、その存在を知らず、遺産分割協議をすることもあるだろう。

 遺言書の存在を知らない場合、2つの例で考えてみたいと思う。
 一つ目は、一人の相続人が、遺言書を隠した場合。この場合、他の相続人は遺言書の存在を知らない。
 この場合は、はっきりしていると言える。
 民法891条第5号相続人の欠格自由の「相続に関する被相続人の遺言書を偽造し、変造し、破棄し、または隠匿した者」に該当する可能性が高い。判例等を見ていると、不当な利益を得る目的で、遺言書を隠した場合は、これに該当することになる。遺言書を隠したらすべて該当するわけではない。全財産をその者に渡すというような、自己に有利の遺言書を隠し、破り捨てても、それは、この第5号の相続欠格者にあたらない。
 自己に不利な内容の遺言書を隠した場合は、その相続人は相続欠格者にあたることになる。
 ということで、一人の相続人が自己に不利益な遺言書を隠し、その他の相続人が遺言書の存在を知らず、遺産分割協議をし、その後、遺言書が発見された場合は、遺言書を隠した相続人は相続欠格者になり、相続人となることができない。遺産分割協議自体も無効になると考えられる。改めて、残りの相続人らで、遺言の指定によって遺産分割されよう。遺言にない部分は、相続欠格者となった相続人を除いて、遺産分割協議をすることになる。当然、相続欠格者となった者は、手に入れた遺産を返さなければならないことになる。

 二つ目として、相続人らが誰も、遺言書の存在を知らず、遺産分割協議をし、その後、遺言書が発見された場合はどうなるのか?
 この場合に関して、最高裁の判例があった。平5.12.6「〜右遺言書の存在を知らずに遺産分割協議をした相続人の意思表示は要素の錯誤が認められる。」と、要素の錯誤による遺産分割の無効を認めている。
 (遺言書があるにもかかわらず)遺言書の存在を知らず、遺産分割協議をしたら、無効となる可能性があるというわけだ。無効となった場合、改めて、遺産分割をし直さなければならない。

 遺言者と相続人。それぞれの事情により色々と難しい問題もあるかもしれないが、遺言者は、遺言書の存在をはっきりしておき、相続人らは、その遺言書の存在をきっちり知っておくように、当事者は行うべきであろう。
一人でも作れる自筆証書遺言による場合は、特に気にかけるべきである(公正証書遺言や、秘密証書遺言の場合は証人が必要となり、純粋に一人では作れない)。

(*2006年6月24日 )

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 第4回目                賃貸借契約

 今回は、賃貸借関係についてのとりとめのない話しで。

 題名が、賃貸借契約とことで、契約から少し。通常、賃貸借契約では、書面の契約書を作ることが多い。というより、契約書を作成しておくべきで、なければ、賃貸借の目的にもよるが、貸す方に不利になる可能性が高い。悪い言い方だが、いったん住み着いてしまったら、追い出すのは一苦労である。契約があいまいだと、解約特約などがあってもそれによる契約解除することが難しい…証明するのが難しくなってくる。
 基本的に、契約は口だけで成立するので、契約書を作成しなければ契約が成立しないわけではない(書面を必要とする契約もあるが、長期定期借地権など)。しかし、口約束では、言った言わない、そんなことなかった、というような無駄ともいえる争いを生じる可能性が高い。約束したことをきちんと証明できるものとして、契約書を作成することは、必須ともいえるだろう。日々行われる日常の買い物ならいざ知らず、賃貸借契約は、基本的に長期になりやすい。時間が経つと、人は忘れるし、また、思い違いも大きくなる。時間が経てば経つほど、争いを生み出す種は増えていく。そういった争いの種を極力出さないために契約書を作成するのである。
 契約書を作成するにしても、どんな内容でも言い訳ではない。極端に一方に有利な内容は、公序良俗等で無効になる可能性が高い。また、法律(強行法規)に違反する内容は、無効である。契約書に書いていても、無効となる場合は、その部分は意味がない。
 さて、賃貸借契約において、貸す側と借りる側の力関係から見ると、貸す側の方が、当然有利である。しかし、それでは問題あるので、法律で、借りる側が保護されている場合がある。借地借家法がその良い例である。借地借家法が適用される賃貸借契約の場合は、借りる方からすれば、だいぶ保護されることになる。借地の場合は、(最初の)借地権の存続期間は30年で、それより短い期間の約束は無効である。また、借地、借家とも期間満了の契約終了後、貸す方は更新をしないと言う場合でも、貸す方に正当の事由がないと、認められないことになる。借りる方からすれば、ありがたい内容だが、逆説的に貸す方からすれば、やっかいな内容だ。契約をするに当たって、それが借地借家法が適用される契約なのかどうか(借地借家法上の強行法規が適用される契約かどうか)、十分考える必要がある。貸す方、借りる方どちらにも言えることである。そして、それを踏まえて契約をしなければならない。どちらにしよ、そんなはずではなかったでは遅いので、法律や契約内容を十分検討して契約を締結する必要があろう。

 賃貸借契約の解除において、信頼関係破壊の法理が影響することが多い。どういうことかと言うと、借りる側に違法な行為があっても(例えば、無断転貸)、信頼を破壊する程度のものでなければ、契約解除は認められないというものである。賃貸借のような継続的な契約は、当事者の信頼関係で成り立っているものが多い。なので、信頼関係が破壊されるようなことでない限り、(まだ信頼関係があるのだから)契約解除できないという考えも妥当だろう。こういったこともあり、契約で、例えば1ヶ月賃料未払いがあった場合は、催告手続き等経ることなく、契約解除できる、といった内容があっても、1か月の未払いでは、信頼を破壊する程度でないと判断されれば、(契約にあっても)契約解除できないことになる。(当然悪質な場合なら1か月の未払いがあれば、契約に則って契約解除できるものと思うが。)

 借家の賃貸借契約において問題になりやすいものに、敷金があろう。敷金は、賃料違約金等、賃貸借契約において賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権を担保するものである。契約が終了し、立ち退いた時、賃料等の未払いがなければ、そのまま返還されるものである。この敷金の返還に関して、問題になることが多い。賃料の未払い等がないにもかかわらず、(使った家・部屋の掃除代などと称して)幾らか差し引かれてから返還されることがそれだ。たとえ話は省くが、最近の判例を見ていると、敷引特約は無効と判断されることが増えてきている。特に、故意により壊したり汚したりするなどを除き、通常使用していれば汚れてきてしまう、いわゆる通常損耗に関しての敷引特約は、よっぽど具体性のある内容でないかぎり、無効と判断される最高裁の判例が出た。敷金を差し引く方に具体的な理由や、証明がないかぎり、通常、敷金を差し引いてから返還するのは、駄目だということになろう。借りた方は、差し引かれた分の返還を求めることができることになる。理由もなく敷金を引かれたことにおかしいではないか、と思ったら、強く主張するべきであろう(裁判してでもという場合は、弁護士に相談することも考えるべき)。

(*2006年7月20日 )

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  第5回目            ネット上での契約について考える

  最初に・・・ここでは、私個人の考えである。学説等と異なる所もあるかもしれないのであしからず。

 インターネットは身近なものになり、ネット上で買い物、取引、また、オークションをする人も多くいるだろう。
 ここでは、特に個人や消費者の立場から契約成立等について考えてみる。

 契約の成立は、二つの意思表示の合致、例えば、この商品を100万円で買いますという「申し込み」の意思表示とわかりました、この商品を100万円で売りますという「承諾」の意思表示、この二つの意思表示の合致により契約が成立することになる。契約をしようとする意思表示がなかったり、契約の基礎となる内容が一致しない場合等は、契約は成立していないということになる。
 お互いに内容が理解していて、その内容で契約するという、当事者間の意思表示の合致があれば、契約は成立することになる。なので、内容を理解していない、理解できない(赤ちゃんなどで)、また、契約しようとする意思表示をしていない場合は、契約は成立していないのである。


 基本的に、契約は、「申し込み」の意思表示と、その申し込みに対する「承諾」の意思表示の合致により成立する。
 
 ネット上で買い物するときを思い浮かべる。
 @ネット上で商品が表示されていて、その中で欲しい物を選び、金額を確認し、これで購入するということで、購入の意思表示をする。お店は、その購入の意思表示を確認し、それで売りますよ、ということを相手側に伝えて、契約が成立する。この場合は、購入者の購入意思が申し込み、お店側の、購入確認メール等が承諾の意思表示に値する。
 ただ、Aネット上での商品の表示が申し込みと判断される場合もある。お店側は、これらの商品、この金額で買ってください、ということで商品を表示しているのなら、買ってください、という申し込みをしていることになり、購入者の購入意思が承諾ということで、購入者が購入意思を相手側に伝えたとき(ネット上の承諾は到達主義)に契約は成立することになる。
 何ら問題なくスムーズにこの取引が終了するのなら、このような違いを考える必要はない。しかし、そうでないこともあるので、これら2パターンの違いについて、少し見てみる。

 まず、@の場合、ネット上で商品の表示は、申し込んでくださいという申し込みの誘引となる。広告のチラシも一般的に申し込みの誘引である。@とAの場合の違い、今回は個人から見た場合で考えるので、キャンセルする場合について考える。
 最初に言っておくと、いったん契約が成立すると、キャンセル、契約解除するのは難しい。相手側に不履行があったり、解約特約などがあったりしないかぎり、一方的なキャンセルはできない。キャンセルできないということは、その商品を買わなくていけないし、買わないと放っておいても、相手側から訴えられたりしたら購入するか、損害賠償を支払わなければいけないことになる。@の場合は、購入意思は、申し込みであり、その申し込みの時点では契約は成立していない。Aの場合は、購入意思を相手側に伝えたときに契約が成立してしまうことになる。
 個人的には、ネット上のお店の商品の表示などは、申し込みの誘引と思っている。購入者が、確定的な購入ボタンを押すことで購入意思を相手に伝え、その後、購入確認メールなどが届いた時などに契約が成立することになろう。
 Aの場合は、確定的な購入ボタンを押した時点(押した時点で相手側に購入意思が届きますので)で契約が成立したことになる。なので、その後キャンセルしようとする場合は、解約特約等がない場合は、相手側が認めない限り、キャンセルはできない。

 しかし、@の場合でも、問題がないわけではない。その理由は、好き勝手に申し込みの撤回ができないことにある。これは、民法に定められていて、承諾の期間が設定されている場合は、その期間中は申し込みの撤回ができない(民521条)、承諾の期間がなくても、隔地者間(当事者が離れている場合、反対は対話者ー対面取引、電話での取引など)の場合は、(申込者が承諾の通知を受けるのに)相当な期間を経過しないことには、申し込みの撤回はできない(民524条)ことになっている。ネット上の買い物は、一般的には隔地者間に当たると思うので、相当期間経過しない限り、申し込みの撤回ができない。購入した後、すぐにやめるといっても、特約がない以上、相手側が認めない限り、そのキャンセル意思(申し込みの)は許されないことになる。
 こう考えると、@とAの差はないように見えるが、数日経っても返事がない場合は撤回できるという意味もあり、@の場合の方が、キャンセルできる可能性はある。

 さて、私自身もネットショッピングをちょくちょくしている。その中で、キャンセルできるかどうか、返品か可能かどうかきちんと確認した上で買い物をするようにしている。大手のネットショップになると、システム上キャンセルも手軽にでき、クーリングオフに近い返品特約があったりする。ちゃんと、そのお店の対応を確認したうえで、買い物するべきなのだろう。相手がお店の場合は、通信販売の規制があるので、返品について何も書かれていない場合は、基本的には返品できると考えていい。また、申し込み後(購入意思送信後)はキャンセルできないと一言書いていれば言い訳なので、そういった文面がないのなら、申し込み後のキャンセルもできると考えていいだろう。

 なので、特に注意すべきなのは、個人間の契約である。個人間の場合は、被害救済のための、消費者法が使えない。消費者法は、(ほぼ?)事業者と個人間の間で法律である。個人間の売買、掲示板上(最近はブログなどか?)やネットオークションする場合は、非常に注意が必要である。
 掲示板上の場合、これで買いますかと載せ、それで買いますとコメントした時点で、契約は成立するわけだから、あとから、やっぱりやめたといっても、買うと言った(掲示板に書いた)でなないか、やめるのは認められない、ということで問題が起きてくる。この場合は、契約が成立しているので、一方的にやっぱりやめたは通じない。
 これは、ネットオークションにも言えることで、ひとたび落札すると、一方的にやめたとは認められないことが多い。もちろん、商品が違っていたや、誤認させる説明文を載せていたりしていたら、キャンセルできると考えても良いだろう。しかし、何ら問題ないのに、落札後の一方的なキャンセルは通常、許されないことに注意すべきであろう。

 続く・・・・・・

 (*2006年9月15日 )

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  第6回目            ネット上の契約について考える・続

 前回の続き・・・(私個人の考えである。学説等と異なる所もあるかもしれないのであしからず。)
 ネットオークションは、インターネットショッピングと違い、個人同士の契約になることが多い。匿名という(相手がわからない)ネットの欠点が個人同士では大きく現れ、リスクを伴うものだと、最初から考えておく必要はあろう。
 ここでは、契約について考えていくわけなので、事件について、騙された等の問題については語らない。ただ、騙されたと感じた時は、オークション運営側に連絡をし、状況によっては、消費生活センター、弁護士等に相談して、また、騙されたとはっきり感じた時は、すぐさま、警察に被害届等をするべきである。

 ネットオークションの契約成立時点は、いつなのか考えてみたいと思う。
 出品者は、要らない物また安く手に入れて高く売りたい物などを誰かに買ってもらうために、出品をする。その出品をした情報を見て、欲しいものと判断し、この値段で手に入るなら買うということで、入札する方は入札を行う。その後、最終的に高い値段をつけた人が落札することになる。
 落札時点か、それとも、落札後出品者の(落札の承諾)通知時点か、が契約成立時点となろう。

 @落札時点の場合は、出品者は、説明文などでこの値段以下の場合は売らないという意思を示していない限り、例え望まない値段でもその値段で売らなくてはいけないだろう。落札した時点で契約が成立したわけなので、不履行や解約の特約などがない限り、勝手に契約の解除はできない。
 A落札後の出品者の通知時点だとすると、落札の内容で承諾するかどうか出品者は決めることができることになると考えられる。
 出品者から見て、幾らでもいいので売りたいということなら、@でいいだろうが、Aのほうが融通が利く。納得できない値段なら承諾をしなくていいのだから(ただし、値段等に条件がある場合はその旨の意思を見せておく必要はあろう)。

 入札側から見てみよう。少なくとも、入札したということはは、申し込み(の意思表示)をしたということになろう(場合によっては承諾に値することもあるが)。入札はその物を幾らで買いたい、売ってくださいと、相手側に意思表示をしたことになる。
 ここで問題は、前回と同じく、キャンセルができるかどうかという問題が大きい。前回にもあるが、契約成立後は相手側に不履行などの問題がない限り、一方的に勝手なキャンセルはできない。入札は、申し込みと思われるので、その内容で落札したらその内容で購入しなければならないことを、入札側は考えておくべきである。
 上記@の場合は、相手側は幾らでもいいので売りますということなので、入札側はある意味、自分が望む価格で購入できるわけである。落札したら、購入することになっても何の損もないはずだ。当然、落札時点で契約が成立しているので、やっぱりやめたは言えない。
 Aの場合、出品者側の通知が来るまで、契約は成立していない。ただし、申し込みの拘束力により、(一般的に相当期間経過するまでは)落札者は申し込みの撤回はできないので、落札した時点でやっぱりやめたは駄目であろう。ただ、考えるべきことがある。買います、売りますというのは自由だが、出品者側の恣意で売るか売らないか決めれることは、不公平である。説明文などに、この値段以下の場合(その他、この条件をクリアしていないのなら)売らないということがない限り、こういう出品者の場合は、落札後でも落札者は申し込みの撤回ができると考えるべきである。お互いが納得し、契約が成立した後は、当然、勝手なキャンセルはできないが。


 落札するまでは、入札の方はいつ撤回してもいいと思う。なので、落札したら、その落札者はその内容で買わなくてはいけなくなることを考えて、入札をして欲しい。相手側に不履行などの問題がない場合は、落札したら勝手な取りやめはできないと思って欲しい。
 出品者側は、条件等がある場合は、きちんと説明文に載せておく等するべきである。また、出品者側が気をつけなくてはいけないのは、落札した相手が、未成年者の場合である。オークションシステム上、未成年者はオークションに参加できないのならいざしらず、相手が未成年者の場合は、契約成立後でも契約の取消ができる。出品者側から見て、その(未成年者の)取消は、考えてもいないことであろう。なので、未成年者お断りなど、説明文で条件としておくのも良いかもしれない。なお、未成年者が成年者だと詐術を用いた場合は、取消しはできなくなる。
 と、今回の総括である。

 気になったことがあったら、この辺りについてまた考えてみたいと思う(追加等あるかも)。この題についてははとりあえあずここまで、では。

 (*2006年9月27日)

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 第7回目               公正証書遺言による遺言書を作る

 まず、初めに、遺言書を作るに当たって、当たり前だが、遺言をする者、遺言書を作成する遺言者の意思がなによりも大事である(というより、遺言者の意思なき遺言は無効)。
 遺言書を作る理由はどうあれ、遺言をしようとする本人が、遺言書を作ろう!と意思がなければ、始まらない。

 一般的の普通の遺言の方式は、3種類あるが、その中で最も良いと思われるのが、公正証書遺言の方式。
初めにあるように、遺言者の意思がなければ無効で、また、本当に本人が書いたのかという問題も自筆証書遺言の場合は、起こりうるが、公正証書遺言の方式ではほぼ起こらない。これは、公証人がきちんと確認するからである。
内容は秘密にできるが、それ以上のメリットのないといえる秘密証書遺言は作成方法がやや面倒で、作成の仕方により問題が出てくることもあるので、やりにくいところがある。
 ということを考えると、一般的には、それなりのリスクはあるが、お金をかけたくないのなら自筆証書遺言。お金はかかるが、リスクが少ないきちんとした遺言書を作るのなら公正証書遺言となる。検認作業など自分が亡くなった後のことは、家族たちに任せておけばいい、だけど遺言の内容は秘密にしたいという場合は、若干費用がかかる秘密証書遺言も考えられる。
 ここでは、公正証書遺言による遺言書の作成をおおまかに見ていこうと思う。
 なお、自筆証書遺言は、ペンと紙(あと印鑑)だけあれば作れる。

 さて、遺言書を作りたいと本人(ここからは遺言者)は考え、公証役場の公証人による公正証書遺言による遺言書を作ることにする。
 民法969条に公正証書遺言についてあり、そこに記載されているとおりすれば、公正証書遺言はできる。
実際的には、まず、公証役場で公証人との打ち合わせから始まる。
 できれば、公証人との打ち合わせの前に、どういった遺言書を作りたいかある程度具体的に考え、メモ書き程度でも良いので、どういった遺言書を作りたいか紙に書いて用意した方が良い。その方がスムーズに行く。また、特定の物だけを特定の者に渡すというような場合以外は、財産目録(おおげさのものでなく、自身の財産を把握する程度)を作成するとなお良い。
ちなみに、私などの専門家に頼んだ場合は、公証人との打ち合わせの前に、依頼者(遺言者のこと)の間でおおよその遺言書の形を作成し、その作成した遺言書の文案および必要書類(不動産の登記事項証明書など)を用意して、打ち合わせに入る。なので、内容・状況によっては、一回の打ち合わせだけで済むこともある。
 公証人との打ち合わせで、用意されていなかったら、どういった遺言をつくるのか、また、用意して欲しい必要書類等について説明される。前準備の状況により、数回、打ち合わせすることになろう。

 打ち合わせが終わり、遺言書の文案も決定し終えたら、公証人の前で最終的な遺言書の作成を行うことになる。
公正証書遺言は証人が2人以上いるので、証人を2人以上(普通は2人だけど)用意しておく必要がある(証人になれない人がいることに注意。自分の家族等は駄目)。専門家に頼んだ場合は、専門家の方で証人は用意可能だ。
 さて、遺言者本人と証人2人が公証人と対面し、打ち合わせの段階で考えた文案を、公証人が筆記(パソコン印字)した遺言書を確認することになる。その遺言書を公証人が遺言者たちに読み聞かせ、筆記が正確であることを確認できたら、遺言書と証人は各自署名押印する。それで終わりだ。公証人が最終的な作業をして、遺言書を手渡される(正本と謄本。原本は公証役場に保管される。なので、失ったとしても再び公証役場で用意してもらえる。)。
 なお、体が悪く、公証役場に行けないという人でも、公証人は来てもらえる(その分、費用がかかるが)し、耳が聞こえない、目が見えず署名できないという場合でも、(法律にそれにかんしてきちんと規定されている)、公正証書遺言による遺言書が作れる。ただ、遺言者本人に意思がない場合(高齢などによる認知症など)は、作ることはできない。

 遺言書は何回でも書き直せるので、作成後将来、変更することがあれば、その部分を撤回変更したり、新しく遺言書を作成すれば良い。公正証書遺言の場合は、できれば、変更等する場合は、公正証書遺言の方式でした方が良いかもしれない(自筆証書遺言の方式でも可能。ただ、原本は公証役場に残っているので・・・。)
 
 (*2006年11月2日)


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  第8回目             個人的に契約書を作成するのに(基本)

 概念的な話だと思うので、気軽に?目を通していただけたらと思う。

 今回は、契約書を作るに当たってて話。
 他のページにもあるが、真実交わした約束を守れるのなら、契約書など作る必要はない。(法律上、契約書の作成を必要としている場合は除くが。)
 約束を守らない、また、どういった約束をしたのかわからなくなるなど、後々、問題が起こったときの資料(証拠)となるのが契約書であり、事後における問題対処のために契約書は作る。
 まあ、基本的に、(口約束だけで契約は成立するので)契約書を作るか作らないかは当事者の自由だが、どうせなら作っておいた方がいいのが、契約書である。


 さて、専門家などに頼まず、自分たちで契約書を作るとしたら?
 雛型の契約書を使う、また雛形集から取り出して用意するのが普通なのだろうか。約束した事項を列挙して、それに関して約束を守ります、という内容のものも思い浮かぶ。
 ここで言いたいのは、その契約書は自分たちが本当に作りたいものかどうか、また、法律上意味があるものかどうか、プラスして問題が起こったとき意味のあるものかどうか、という点を注意して欲しい。
 一点目、その契約書は自分たちが本当に作りたいものかどうか。
 雛型の契約書を使う場合は、ちゃんと内容を確認して使って欲しい。中には、不必要なものもあるだろうし、また、足りないものもあるだろう、個々の条文の中に自分たちが必要としている内容と違っていることもあるだろう。中身を精査し、自分たちだけの契約書を作成して欲しい。何もない真っ白の状態から、作成する場合もあてはまる。
 二点目、法律上意味のあるものかどうか。と三点目、問題が起こったとき意味のあるものかどうか。
 契約書を作成しても、それが、法律上意味のないものなら、法律等による救済―裁判等しても、その契約書は紙くず同然となってしまう。契約の内容、書き方によっては、意味のないものになってしまうことがあるので、考えて欲しい。例えば、公序良俗違反の内容は、法律上、無効だ。契約書にあっても、その条項は無効となる(はじめからなかったものと考えればよい)。また、強行規定―法律の規定と違う特約をしても、無効になるものもある。
具体的でなく、内容がわからないということもあろう。
 難しく考える必要はないが、契約書を作るに当たって、注意すべき点があるということを理解してもらいたい。

 作成するに当たってするべきこととして…作成する契約書に関係する法律を調べることはとても重要で、強行規定に反しないかどうかだけでなく、契約書として意味あるものにするための条項作成のためにも、調べるのは大切な行為である。法律にある権利義務を、契約書上はっきりしていないものは、その期待する効果に疑問がでてくる。金銭の貸し借りも、お金を貸すだけの内容の契約書では、お金を返還する義務はあるのか?という疑問がその契約書から出ても不思議ではない。貸すなら、返すという内容があって、契約書を作成したことによる期待する効果を求めることができる。このお金の貸し借りに関して、民法587条の消費貸借の条文を見ると・・・消費貸借は……返還することを約して、相手方から金銭等を受け取ることによって、その効力が生じる。とある。
 返すという内容のない契約書では、その契約書の中では、消費貸借の効力がないと思われても不思議ではないのである。効力がない―生じていないなら、貸した側は金銭の返還請求できないことになってしまうであろう。こういったことを未然に防ぐためにも、法律を調べておくのが大切なのである。
 まとめて、権利と義務は契約書上ではっきりさせておくのが、重要かつ基本的なことなのである。
 
 簡単に契約書を作るのを見てみよう。
 消費貸借に関しては、民法に入る2のところに書いている部分もあるので、売買についてやろうと思う。
例:Aは『箱』をBに千円で売る。
 売買契約を交わしたその場で、AからBに『箱』を渡し、その代金として千円をAはBから受け取るのなら、(当事者両方とも求める権利義務を履行するわけなので)契約書の作成は不必要だろう(ただ、担保責任の問題…その物に瑕疵があった場合の取り決めなどを考えて、契約書を作ることもある)。…まあ、この点は考えないとして(自分で掲げているが…)…契約書を考えると、

 ○売買契約書 と題名して
 Aは、Bに『箱』を売り渡すことを約し、その代金としてBはAに金千円を支払うことを約する。
 日付
 それぞれ、署名押印して作成終わり。

 …これ(だけ)でAとBは『箱』に関して売買契約を交わしたということが見て取れる。
 これだけでは、十分だとはいえないが、契約上、売買契約の効力(民555条)は発生する。Bは千円払うのに、Aが『箱』を売り渡そうとしないのなら、この契約書にあるだろうと、Aに『箱』を売り渡すよう請求できる。
 まあ、これだけでは不十分とも言えるので、付け加えて、
 「1.Aは、Bに『箱』を売り渡すことを約し、その代金としてBはAに金千円を支払うことを約する。
 2.この契約書作成日の翌日にAの自宅において、AはBにA所有の『箱』を引渡し、BはAに代金千円を支払うことを約束する。なお、この引渡しにより『箱』の所有権はAからBに移転することを確認した。」
となると、先ほどよりわかりやすくなるだろうか。
 ………このように、約束事を順に書き加え、契約書を作成していくことになる。
 上記以外に気になる点を挙げ(例えば、債務不履行のときどうするか、その『箱』に瑕疵があったときどうするかなど)、その部分に関しての条項を(債務不履行がある場合、契約解除でき違約金を請求できる。瑕疵がある場合、損害賠償幾らできる等)加えていくことになるだろう。その場合、法律上の規定はどうなっているのか調べ、その点も考慮に入れて作成することになる(法律の規定そのまま通りでいいのなら、書き加える必要もない)。
 
 契約書を作成するという観点から簡単に見てきたが、契約書を作成することによる期待効果を生み出せる契約書を作成してほしいと思う。
 とりあえず、今回はここまでで・・。
 
 (*2006年12月11日)

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  第9回目             熟年離婚について考えてみる

 厚生年金の分割制度のこともあり、今年は熟年離婚の話が話題になると思われる。
 分割制度施行後しばらくしてからこの辺りについて、再び考えてみたいと思っているので、今回はさわりだけ。

 早速だが、厚生年金の分割制度について知りたい人は、社会保険庁のHPに詳しい解説がある。そのHPに、この制度に対する相談件数についてのことがあるのだが、思ったことは、これだけの人数の人が、離婚を考えているということだろう。全国的に1万人を超えている。大体は、妻側からと思われるが、現在の夫婦関係に疑問を、そして、解消を考えている人がそれなりにいるということになる。
 この制度の施行を区切りに離婚請求が増えると考えると、離婚をしたくても切り出せない人は、お金の問題を気にしているということだろう。生活していけるかどうかが気になり、離婚してくださいと言えない。違った方向から見ると、現在の夫婦関係に不満を持っている人が多くいるということだろう。
 人間はそれぞれ違う。夫婦もそれぞれによって違うのだろうが、お互いの関係に疑問を、不満を感じてしまったのなら、お互いでそれを直していかなければならない。それができなくなってしまったら離婚も仕方がないのかもしれない。でも、互いに関係の治療をしようとせず、離婚前提の話にはしてほしくないと思う。
・・・・・・離婚は老若関係ないと思うが、この制度により熟年離婚が増えると思われるのは、熟年の夫婦―長期間夫婦であったという人でないと、この制度の利用意義がないからだと思う。厚生年金部分が対象となり、婚姻期間が分割の対象となる期間になる。離婚を考えている人でも、相手が厚生年金と関係ない自営業や、結婚したばかりの夫婦では、この分割制度は関係ない。そのことを考えると、厚生年金等ある勤め人の熟年夫婦による離婚でこの制度の意義が見出せる。
 離婚をするという話で考えて、離婚をした場合の金銭的な流れを見ると、まず財産分与がある。また、離婚原因を作った方に対して慰謝料を請求できるかもしれない。これに加えて、厚生年金の上乗せがこの制度によって考えることになるのであろうが、それらを考慮して、離婚後の生活について考えなければならない。お金、生活の問題を気にしている人は、これらを総合して考えなければならないだろう。厚生年金の分割制度の上乗せにより、生活ができるのだろうか。財産分与等加えて、「一人」で生活できるのであろうか。離婚後、金銭的に苦しい生活をすることになっても、また、「一人」気楽という自由を得ても、時間が経つと、孤独の寂しさと直面するかもしれず、離婚したことを後悔するかもしれないが、後の祭りだ。熟年だけでないが、未来を見つめて、未来を予測して、この問題に対処しなければならない。厚生年金の分割制度だけに心を奪われて欲しくないと思う。(…逆に、夫婦の状況によっては離婚したほうがよい場合もあるだろう。そこに生活の不安のため、離婚したくても離婚できない人もいよう。それでも離婚を我慢する必要があるのかどうか。過去にねたみをもたず、未来を見て欲しい。この制度が助けになってくれればと思う。)

 先にも書いたが、人はそれぞれ違う。話さなくても分かるということは愛情があるか、うぬぼれがあるかだろう。言葉による会話がなければ、相手に通じない。互いに感謝の気持ちを持って、それを相手に伝えて欲しいと思う。熟年離婚の問題は、熟年の夫婦の素晴らしさを発見する機会になるかもしれない。

(*2007年1月5日 )

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  第10回目           自筆証書遺言について考える

 第7回目で「公正証書遺言」の作成についてあるが、今回は、「自筆証書遺言」に関し似た感じでいきたいと思う。

 「自筆証書遺言」のメリットは、手軽にできるところにある。紙とペン(あと印鑑)があれば作れる。公正証書遺言などによる方式と違い「一人」で作成することができる。だから、ある意味、作りたいときにいつでも一人で作ることが可能だ。
 その反面、遺言書として内容も含め、法律上無効となる可能性がある。また、遺言書の改編や失われることによる問題も発生しやすい(原本が公証役場に残る「公正証書遺言」ではこういう問題は起こらない)。および、遺言書として内容も含め有効だとしても、手続き上、(その内容が手続先の相手側が判断しづらい内容により)苦労することもある。
 手軽にできる反面、それに反射するように欠点もそれなりにあるのが、「自筆証書遺言」である。

 遺言は、民法により法律に定める方式に従ってしなければならない(民法960条)。そして、当然だが、遺言者は、その遺言をするときにおいてその能力(意志)を有しなければならない(民法963条)。満15歳に達した者なら遺言をすることが可能になる(民法961条)。
 満15歳に達した人なら、本人の意志のもと、誰でも紙とペンと印鑑さえあれば、法律上意味のある遺言書を作ることができる。これが「自筆証書遺言」である。

 さて、簡単にだが、作成についてみておこう。
 遺言をする人の遺言書を作るという意志があって作ることになる(当たり前のことだが、非常に大切なこと)。準備として、遺言書のもとになる「紙とペンと印鑑」を用意する。その他、できれば財産目録(遺言書記載の財産だけでも。その財産を現す登記事項証明書や通帳などを用意)や、財産を遺贈する相手の情報(戸籍、住民票)を用意するべきだろう。
 紙とペンだが、まあ、何でもいいことになる。民法上の方式に従って作成されているのなら、自筆証書遺言として有効だ。だから、葉書やチラシの裏に書いても別に構わないことになる。簡単に消せる鉛筆はやめておくべきで、印鑑に関しては、実印である必要はなく、別に認め、拇印でも構わない(本人の印鑑であるというのがわかるのなら)。

 下準備を終えて、遺言書の作成に入る。
 自筆証書遺言による遺言書の作成方法は、民法968条にある。
自筆証書によって遺言をするには、遺言者が、その全文、日付及び氏名を自筆し、これに印を押さなければならない。
 つまり、全部、自分の自筆で書かなければならないということだ。当然、パソコン印字や誰かに代わりに書いてもらった自筆証書の遺言書は無効となる。全部自分で書かないといけないのだ。
なので自筆ができない場合、自分の手で全部書けない場合は、自筆証書遺言による遺言書は作れず、公正証書遺言等による遺言書作成となる。
 日付、名前も入れて、とにかく全部自分の手で書くのが基本だ。

 内容について考えるべきことは、遺言可能事項―法律上、遺言として有効なものに範囲があることである。別に何を書いてもいいのだろうが、それが法律上有効とは限らない。遺言者の債務についての内容など、遺言書に書いても法律上は意味のないものもある(債務に関しては、この場合、債権者との話し合いが先で…)。
 あと、具体的に書く、のが基本となる。遺言の対象となる財産やその相手が抽象的で、他者からみて何だかわからないのでは意味がない。具体的に、土地なら所在、地番、地目、地積(登記事項証明書、権利書通りに)を、預金なら銀行支店名など(その通帳通りに)、遺贈対象者も、家族なら、妻―、長男―でもわかるだろうが、友人などの場合は、住所、本籍、生年月日などを付記して特定させておく必要がある。
法律上の観点からすれば、遺留分についても、留意する必要はある(遺留分を侵害する内容でも無効ではないが)。
 
以上の注意点を考え、実際に作ってみることになる。
 まさしく簡単にやれば・・・

「    遺言書
 遺言者は、その所有する一切の財産を、妻―(生年月日)に相続させる。
       (*↑手続き上のことを考えると、実際は面倒だが一つ一つ財産を書き出しておく方が良い。

 平成○年○月○日
 (*↑ 日付は、「日」までしっかり書く。
  遺言者 氏名  ― ―     印              」

・・・と、全部自筆で書いて、遺言書作成は完了することになる。

 これだけで終わるのは、あじけないので・・・もう一つ例として、

「    遺言書
 遺言者―は、この遺言書により次の通り遺言をする。

第1条 遺言者は、その所有する次の不動産及び預金を、妻―(生年月日)に相続させる。
 (1)土地の表示 所在 地番
            地目 地積
 (2)建物の表示 所在
            家屋番号
            種類 構造
            床面積
 
 (3)遺言者名義の○銀行○支店の普通預金及び定期預金の全額。

第2条 遺言者は、その所有する次の預金を、長男―(生年月日)に相続させる。

 (1) 遺言者名義の○銀行○支店の普通預金の全額。
 (2) 遺言者名義の郵便局における預金債権の全額。

第3条 遺言者は、その所有する次の預金を、―(住所 生年月日)に遺贈する。

 (1)遺言者名義の○銀行○支店の普通預金の全額。

第4条 遺言者は、この遺言の遺言執行者として、次の者を氏名する。
   
  住所
  長男―  (生年月日)

  平成○年○月○日
  住所       氏名 ―   印           」
 (*↑住所記載は要件ではないが、遺言者特定のためなどに明記することが好ましい

 と、基本的な遺言書の内容だが、このような内容を全部、自筆して、遺言書を作ることになる。

 遺言書の内容自体は、それぞれの事例によって変わってくるので(機会があればこの連載物等で考えたい)、上記の物は一つの参考として見て欲しい。
 なお、書き間違い、書き直しをしたい場合などあるだろうが、その方法についても民法で決められており、「自筆証書中の加除その他の変更は、遺言者が、その場所を指示し、これを変更した旨を付記して特にこれに署名し、かつ、その変更の場所に印を押さなければ、その効力を生じない」と結構面倒な作業をしなくてはいけない。
 (例: 上記の遺言書で見ると・・・ 「付記 この遺言書十二行目中「普通預金」とあるを、「定期預金」と訂正した。氏名」・・・となる。その部分は「(1) 遺言者名義の○銀行○支店の普通預金の全額。」こんな感じで。)
                                       定期預金 印
*もちろん、ここも自筆。
 書き直しなどが多い場合は、改めて作り直したほうが良いだろう。その場合は、不必要となった前の物は破るなどして処分しておくべき(残しておくと後でややこしいことになりかねないので)。


 書き上げた遺言書を、封筒に入れるかどうかは遺言者の自由だ。特に法定されているわけではない。ただし、封筒に入れて封をした場合は、その封書に題名「遺言書」として、「遺言書在中。開封厳禁。この遺言書を、遺言者の死後遅滞なくこのまま家庭裁判所に提出すること。家庭裁判所外で開封した場合は過料に処せられる。平成○年○月○日 遺言者氏名」と記載しておくべきだろう。
 なお、自筆証書遺言の場合は、その保管者や発見者となる相続人等は、その遺言書を家庭裁判所に提出して検認を請求しなければならない。(公正証書遺言による遺言書の場合は検認は必要ない)。検認を怠った場合は過料に処せられることになる(民法1005条)。

 第7回目の公正証書遺言のところでもあるが、やり直し、作り直しはいつでもできる。一人でも可能な自筆証書遺言はまさしく手軽(作るときの気持ちは重いものかもしれないが)に作成できる。
 遺言書を作らないと、と思ったら・・・作成してみるのもいいのかもしれない。

(*2007年2月21日 )

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    番外編                遵法について考えてみる

 今回は、雑談程度なものと思って下さい。

 今回は初め、「労務契約について考える」という内容でいこうと考えていたのだが、現在の労務事情を省みて、法律は守られているのか?とつい考えてしまい、題名の内容で考えてみたくなった。

 残業代未払いや使い捨てのような労働者の扱いはニュースなどでよく見かけられる。経営者側などに誠実に法律を守る精神があれば、こういった問題は起こりにくいはずだが、現実はそうではないようだ。法律の網をかいくぐり、自己の利益を図るのは、思想精神、人間の性質上の問題もあるわけだが、それを理解し理性を滾らせて、規律を守るという強い信念を抱き、実行することは可能で本来そうあるべき。だけど、誰もがみんなそうなるわけでもなく、そうできるわけでもない。
 一つの社会秩序の体系として法律があり、それに基づく罰則がある。だが、例えば労働関係のように地位的弱者を守る法律がきちんと守られているのか?と思うと、法律とは何のためにあるのか、ということが考えさせられてしまう。雇われ人が被害を受けて訴えたくても、その後の働き場所での扱いに不利益があるのではないかと思うとできなくなることもあるだろう。また、労働基準監督署などに訴え出ても、確実な問題解決までならない可能性もある。裁判をするには、時間金銭等のリスクがあり、なかなかできないのが現実だ。
 現行、法律があっても、それを守らせることに関しては、弱いとしか思えない。家族、教育、環境等による人間形成により、法律―社会規律は守らなければならないと皆思い実践できればいいが、現実上は不可能に近いであろう。
法律の全てが正しく必要性があるわけではないだろうが(この辺については掘り下げない)、守られるべき法律があっても、守られない場合の対応について、もっと私たちは考えなくてはいけないのではないのだろうか。
 
 刑事と民事は違う。例えば、家族内の不和程度では、なかなか警察が介入してくることはない。民事不介入、警察の法律体系、できない部分もあろう。労働問題については、民事的な要素が強い。罰則規定があったとしても、実行されているかどうか、実行されても相手に遵法の意義を教えることができるかどうか。罰則が適用されても、民事上の解決に至るわけでもない。また、民事上で解決しても、それはその事件だけ、これからも当人が同じことを繰り返すことはある。結局は、法律を規律を守る意識を持たせないとその場しのぎの話に終わる。
 刑事上、民事上の解決と共に遵法の精神を抱かせる、この二つが完了して、初めて真なる解決に至るのではないだろうか。これを実践できるようになるには、数多くの改革(一人一人の思想的なものも含めてです)が必要になってくるだろう。何がいいのかは、わからない。でも、考えられることはあるだろう。例えとして、民事警察(仮称)。民事に積極的に介入して、解決を図る機関。民事の解決は、当事者の相互理解―和解が原則で、基本的にそれを導くのがその機関の役割だ。・・・司法、更正作業などとの関わり方、そこには三権分立―行政、司法、立法的内容まで入らなくてはならず、長くなるのでここではこれ以上突っ込んだ内容には入らない。が少しだけ…、
 ここでは強制的な執行を可能かどうかが重要になってきて、そのため「公的な機関」が必要となる。それは、言葉だけで「納得できる」とは限らないことにある。…最終的な裁判の結果に納得できない当事者たちがいることでもわかる。結局は、民事的な話でも何らかの強制力が必要になり、それを素早く執行可能にするためには「公的な機関」である必要がある。現法律体系にも強制執行はある。だが、ここに関しても考えるべきことはたくさんある。意味無き執行なら無いと同じ。相手の事情を考えてなどと「結局執行ができない」ことを当事者は求めてはいない…。最終的な解決には、多くのことを考えなくてはならない。執行力、拘束、更正作用などを法治国家として「民間機関」がそれを行うには問題が多い。そのためにこの民事警察(仮称)は「公的機関」である必要があり、そして、司法、更正作用等を含めての体系を考えなければならない。

 夢物語みたいな話になっているが、誰もが遵法精神を持って行動できるためには何が必要か。それを考えると誰もが頼れる信じられるこの「一つの体系」を思い浮かべる。(…別にこういう機関があっても、求めるすべての問題が解決するわけでなないのだが、一つの方策として挙げてみた。)
 解決に至る・・・現在思想また社会構造を変えていくことができるのは一長一短でできるものではないが、できないわけではない。どうすればいいのかはわからないが、それをわかる人もいるだろう。実践できることもあるだろう。私も考えていくことにする。
 

(*2007年5月1日 )

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  第11回目                 法を読む―外国人との婚姻から

 早速だが、外国人との法律関係は、どの国の法律を適用するかを考えなくてはいけない。それに関しては、「法の適用に関する通則法」に記載されている。
 その法律を読んで、(日本人)が外国人と結婚する場合に適用される法律(準拠法)を見てみると・・・法律24条に婚姻の成立及び方式についてのことが規定されている。
 その前に、法律上の婚姻は、法律上有効に成立させるために法律上求められる必要条件である「実質的成立要件」と婚姻を有効に成立させるための方式―手続要件である「形式的成立要件」の両方をクリアして、法律上の婚姻が成立する。婚姻での必要条件である「実質的成立要件」の中身は、年齢要件(男子18、女子16歳以上)や未成年者の父母の同意、重婚、近親婚の禁止、再婚禁止期間等があり、それらの条件をクリアした上で(なお、これらの要件が満たされていないのに万が一、届出が受理された場合は必ずしも無効ではなく、取消の対象となる)、手続要件である戸籍法の定めるところにより届け出ることによって婚姻の効力は発生することになる。

 と、上記要件を踏まえた上で、「法の適用に関する通則法」24条を見てみると、第1項「婚姻の成立は、各当事者につき、その本国法による」ことになっている。実質的要件として、日本人は日本の法律、外国人は当該外国の法律の要件を備えている必要がある(重婚禁止のように双方の当事者について要件となるものもある)。形式要件―手続方法としては第2項「婚姻の方式は、婚姻挙行地の法による。」第3項「前項の規定に関わらず、当事者一方の本国法に適用する方式は、有効とする。ただし(省略)。」ということになる。日本人が日本で行う場合は、3項但し書きのこともあり、日本の民法の方式となる(つまり、戸籍法の定めるところによる届出で)。届出の際には、当該外国人は、国籍証明書と婚姻要件具備証明書等を添付する必要がある。詳しくは、役所の窓口、また証明書等の入手は当該外国大使館で確認して欲しい。なお、日本でその外国人配偶者が生活していくための、「日本人の配偶者等」の在留資格の取得が必要になってくる。

 外国人との離婚に関しては、法27条より25条の準用、適用される準拠法は、@夫婦の本国法が同一の場合はその法、それがないときはA夫婦の常居所地法が同一であるときはその法、それもないときはB夫婦に最も密接な関係がある地の法による。なお、法27条但し書きにより、日本に常居所を有する日本人の場合は、日本法が適用される。日本で暮らしている(日本人の)外国人との離婚は、日本の民法の定めるところになる(ただ、当該外国人の本国法が民法にある協議離婚という制度を認めていないなど、その外国の本国法上離婚したことになるかどうかは事前に確認しておく必要があるだろう。)。
 なお、過去の最高裁判例に、財産分与に関する準拠法は、離婚の準拠法によるというものがある。なので、日本人の日本においての外国人との離婚では離婚の手続方法だけでなく財産分与も日本国民法によることになる。
 離婚において、子供がいるときにその親権者についての準拠法は、判例等あわせて見ると、法の適用に関する通則法32条によることになっている。32条「親子の法律関係は、子の本国法が父又は母の本国法(父母の一方が死亡し、又は知れない場合にあっては、他の一方の本国法)と同一の場合には子の本国法により、その他の場合には子の常居所地法による」。ということで、日本人による日本での離婚の場合は、大概、子の親権者に関する準拠法も日本民法になると思われる。

 以上のように、外国人関係で法律関係を考える場合は、どの法律が適用されるのかを考えなくてはならない。特にここでは法を読み取るという行為がとても重要になってくる。色々な契約等に関しても、当該「法の適用に関する通則法」にあるので、必要なとき読んでみてください。。

(*2007年5月28日 )

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   第12回目                  憲法を読むパート1

  シリーズものとして、最高法規である憲法を個人的観点?で見てみようと思う。

 まず、「前文」から始まる憲法。「前文」は、憲法の制定理由、目的、根本理念などが書かれている。今読むと、難しい感じがする言葉で書かれているが(改正で現在にあわせた言葉で表現することはできるだろう)、憲法全体の根底にあるものなので一度読んでもらいたい。

 さて、第1条は天皇についてである。「天皇は日本国の象徴、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存ずる日本国民の総意に基づく」と、天皇は日本国を表す象徴である。憲法3条以下をあわせて見ると、天皇には、現憲法上何らかの権力を持っていない。天皇に何らかの権力を持たせると、その天皇を巡って権力争いが起きることが目に見えており、過去の歴史を見ても、人間構造から考えても、全体の中心となる位置にいる者が権力を持つことは、その権力を巡る争いの元になるだろう。そういう観点からも、天皇に国政に関する権能を有しない(4条)、とあるのは、納得できるものである。
 内閣総理大臣の任命や国会を召集することなどの国事行為を天皇は行うが、内閣総理大臣の任命にあるようにその国事行為は、あくまで、儀礼的・形式的なものでしかない。天皇が内閣総理大臣を指名するわけではないし、国会を意図的に召集できるわけでもない。3条に、「天皇の国事に関するすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」とある。内閣が責任を持って、天皇に国事に関する儀礼的な行為を求めるだけで、天皇には何らかの国事的権力はない。
 権力があるということは争いの種になる。しかし、国の象徴する中心的位置にいる者が、象徴的立場でいることだけで甘んじていいのかということを思うことがある。民主主義は、国民主導で国家を統治するものだが、その民主主義というものにもある種の危うさがあることを忘れてはならない。それは、民主主義の根底に、多数決があることにも伺える。数が多いほうが正当化され、例え少数派のほうが大局的に見て正しくても、多数決制度によりその意見は押さえ込まれてしまう。極端に言うと、少数派の考え・意見は多数というものに殺されてしまう。調和が成り立っている間は、極端にある方向へ流れることはないかもしれないが、全体的に多数に押され、ある方向へ急速に進むことはある。それが、顕著になると、戦争のような行為が勃発することもあり得る。ここでは、少数派の意見は多勢の波に飲まれ殺されてしまう。こうなったら、誰も止められない。そう、誰も止められない状況になったとき、止める者がいなければならない。それができるのが、中心的立場にいる者である。
例え優れた人でも、権力の中では、権力というものに巻き込まれてしまう。権力というものに人は固執する歴史を見ても明らかだ。だから、権力があるというのは、問題があるのだが、権力はなくても、意見を言う、皆を諭すことはできるし、許されるだろう。難しい問題がはらんでいるが、天皇のあり方について、将来に向かって考えるべきものはあるだろう。…
 2条により、皇位は世襲のもので、皇室典範(国会の議決した法律)の定めるところにより、継承することになっている。女性天皇を認めるかどうかは、憲法上というより、法律上で解決できるものであるわけで、国民の代表者である国会の議決で決定できるものである。

 8条までは天皇に関して(天皇の政治的中立性を考えている)のことで、9条には日本のシンボルでもあるような「平和主義」を示す戦争の放棄に関してのことが記載されている。大雑把に見ると、9条には、戦争の放棄、戦力の不所持、交戦権(他国と戦争をなしうる権利)の否認が書かれている。よく憲法改正の標的に上げられる9条だが、永久平和主義を挙げる立場にいるのなら、この9条の内容は納得できるものである。現実問題、世界から争いをなくさせることは難しいだろうが、平和主義を貫くその姿を見せ続けることに意味はあるだろうと考える。平和とは何か、戦争をしないだけが平和ということでないと思う。平和主義を謳う日本が見せるべきなのは、どういった姿なのか、改正論理も含め考えるべきことはあるだろう。

 その国の一員として、憲法を知ることは基本的なことだと思う。これからも、折を見て、憲法を見ていきたい。
パート2に続く。

(*2007年8月10日 )

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   第13回目                  憲法を読むパート2

 憲法を読む第2弾、10条から見てみると、10条は国籍について記載されている。「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、国籍法という法律により、日本国民の要件を定めていることになる。国籍法―法律ということは、国会の議決のみで改変等が可能ということになる(ある意味、恣意的に日本国民たる自覚のない国民として認めるべきでないと思われる者を、国会内の法改正で日本国籍を与えることができるということである)。
 なので、文章は難しいが、憲法に日本国民たる基本要件を記載するのもいいのかも?と思う。それは、国家と言うのは、民主主義―国民によって形成されていることである。国家を維持し守り未来へ繋ぐのは、その国民であり、国民としての何らかの最低限の意識というものは必要ではないか。国を大事に思ういうのは、国民主権の基本的事項だと思う。例え、抽象的でも国籍法を考えるうえの基本原則となる国民としてのあるべき姿を憲法上含めるのもありかなと考える。
 含めて、憲法上保障される基本的人権の対象は基本的には「日本国民」に対してである。国家には限界がある。金銭的なものも然り、限りある領土にある国家はその内在するものにも限界がある。それは国家は無限に人に対して保障することができないということだ。限界がある以上、保障するべき範囲も、最低限保障するべき範囲も決まってくる。つまり、世界中の人間全てを守るだけのものはない。でも、少なくとも国家を形成する国民は守られる範囲に入ろう。その他はできる範囲で考えなければならない。それは、いたずらに国民たる範囲を広げるのには無理があるということだ。今の国籍要件を大幅に変える改変はないと思うが、法律である以上、可能性としては国会の法律改正で大きく変えることがありうる。最低限の基本的要件が憲法にあるとしたら、国籍法もそれを指針としてあらねばならない。憲法改正は、国民が決めること。最低限でも、その国民たる要件は、国民自身が強く意識することも大事でないかと思う。・・・

 憲法11条からは、基本的人権についての内容である。例えば、第11条「『国民』は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法の保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在、及び将来の『国民』に与えられる」。
 先ほども書いたが、基本的な基本的人権の対象は『国民』ということになる。でも、世界としての一員として、日本国民だけを守ってそれ以外の人はどうなってもいいというわけではない。最大判(学習している人にとっては有名な?マクリーン事件)でも、「基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみを対象としているのを除き、我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ」とある。国家としての限界、国民のみを対象としているのを除き、同じ命、同じ人間として、外国人にも基本的人権が及ぶというのは当然のことであろう。判例上、この基本的人権の対象は、自然人に限られず、内国法人にも(その性質上の限界はあるが)適用されるという判断をされている。
 さて、基本的人権を持っているとしても、権利があるから何をしてもいいというわけでもない。それを戒めるためにも、12条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と、自由権利にも制約があるということを見せている。
 13条では、「すべて国民は個人として尊重される。―」と、一人一人が生まれながら等しく個として扱われ尊重され、「−生命、自由、幸福追求に対する国民の権利については、『公共の福祉に反しない限り』、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と、国民一人一人にある生命・自由・幸福追求する権利は国家の上で尊重されるべき事項として存在する。公共の福祉という制限の中で、国民には幸福追求権を求めることができる。誰しも、幸福になる権利があり、当然、生命、自由において幸福でいられることは大事だ。でも、幸福になるためには何をしてもいいわけでなく、12条にもある権利は濫用してはならない、そして、「公共の福祉」に反するようなことは集団生活を行う社会国家として守るべき秩序を破壊することになり認めるわけにはいかない。
 各自は、個人として尊重され、幸福追求に対する権利を持つ。一つの判例(学習する上で有名?宴のあと事件」を見ておく、「個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによって初めて確実なものとなるのであって―省略―いわゆる、プライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として保障される―。」
 幸福追求権として権利(プライバシー権然り、その他環境権、健康権、情報権等)として何処まで認められるかの判断は、法的な判断―最終的には裁判所の判断となろう。権利を持つといえども、国民―国家を形成する一員として、国家の安定維持を考慮した中で、権利を求めて欲しいと考える。。

個人的観点?から見る憲法を読むパート3へ続きたいと思う。

(*2007年8月30日 )

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    第14回目                   憲法を読むパート3

 個人的観点?から見る憲法を読むパート3、14条を読むと、法の下の平等に関して記載されている。
「@すべて国民は、法の下で平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。
 人には、平等に生きていく権利がある。民主主義国家、法治主義国家の中では、法の下で平等であるということは至極当然で必要なことである。法の下での平等は、法の不平等な「適用」やそもそもの法律内での差別的取扱いを禁止するという考えであろう。ただ、地域事情、男女・大人子供の違いなどから幾らかの差が出ることは致し方ない。法的にも「合理的な差別」なら容認されるという判断になっている。最高裁判例でも、女性の再婚禁止(父性推定の重複の回避、父子問題を事前に回避できる)、非嫡出子の相続分2分の1(法律上の配偶者のもとで生まれた嫡出子を尊重する。*ただ、これに関しては将来的に変更される可能性があると思われる)などは、「合理的な差別」として認められている。
 さて、個人的に見ると、法の下で差別されない―とあるが、実際問題どうなのだろうか?と思うと怪しい。差別されている―という事情を利用し利権を得ている人たちがいるように思える。また、身分地位の高さ、お金がある人のほうが有利に事が運ぶところも見受けられる。表面的には、法の下の平等は守られているだろう。しかし、暗部では合理的でない法の下での差別がうごめいているのではないか。(憲法にもある別の回で見ることになるが)法律を生み出すー立法は国会が行うことである。その国会の一員、議員は本当に「すべての国民」のために考えて、差別にならないような法律を考えているのだろうか。利権のもとに法を策定していないだろうか、こういった疑問は尽きない。人間社会、差というものは当然ある。人間一人一人違う、そこには「差」というものはある。だから、差によって扱いが違うことはあってもおかしくはない。しかし、その差が人が生きていく中で「障害」となる場合はその障害を取り除く必要がある。
 人間は差というものを意識し、差を恐れ、また、差というものを守るために「差の壁」を生み出す。「差の壁」を作り、壁の力で自分を守らせる。その壁を作るのは、人間の心でもあり、そして、社会そのもの、法律も含まれよう。本質的には人が平等で生きていく権利があることが民主主義国家の前提なら、その中で「障害」となる差という壁は取り除かなくてはならない。差という壁を設け一方を守るのではなく、差という壁を取り除くことに差を消滅させ、平等とする姿があると思う。ここに差別という問題を解決する一つの答えがあるのではないかと個人的に思う。
 
 14条2項には、華族・貴族制度を認めない、旨。3項では、栄誉、勲章その他の栄典の授与はいかなる特権も伴わない―、旨が記載されている。つまり、特権(階級)を認めないということだ。まあ、華族貴族等は自分たちの地位を守るために国を動かすこともあるわけで、歴史的にもそういったこともあるので、こういった特権階級は認めないのも当然だろう。ただ、個人的にはこういった貴族などがあることでのメリットもあるように(普通の人が言えないことを言える、間違ったこと(権力)に対して戦い行動できる)思えるが、人の本質を考えれば、デメリットのほうが大きいだろうし、必要ないのかもしれない。

 15条を見ると、
@公務員を選定し、及び、これを罷免することは、国民固有の権利である。
Aすべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
B公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
Cすべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。

 とある。
 民主主義国家として、国家を運営していく公務員(議員等)を選定等する権利が国民固有のものであるのは当然なことである。選挙できる地位が制限されないのも当然のことであろう。この条文で個人的に目に付くのが、2項の内容である。全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。本当にこれ守られているの?と思ってしまった。一部の範囲のこと(一定の人たちだけを得させること)しか頭にない公務員(議員等)もいるように思えるが・・・。全体の奉仕者というものを具体的に見せるのも難しい所はあるだろうが、少なくとも心構えとして、公務員(議員等)が全体のために公務を行うと強く意識させるものであってほしいと思う。
国民固有の権利だから、外国人の参政権については保障されていない。国家として、その国の人が決めるのは当然、他国の者はその他国のために相手国を混乱・破壊させることもあるので、国民固有の権利であるのは大切なことである。

 16条には「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令または規則の制定、廃止または改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人もかかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と記載されている。例え、国家を運営する議員を国民が選挙によって選べるとしても、全国民の意図がそこに反映できるわけでもない。また、政治に関わる・統治する立場にいると、一般民衆の生活がわからないことも多々あろう。法律が一部の者のためにあり、その他を苦しめることも有りうる。そんなとき、その国に住む人に何の何の主張もできないのなら、それは民主主義―ではなく、力のある者の思い通りになってしまう専制国家になってしまう。「請願」とは、国民に与えられた権利である。直接政治に関わらなくてもその国民の希望や要望を主張できる。その内容には、国家の立場からすれば気に食わないものもあるだろう。だからといって、請願をした人を抑制し何らかの不利益を与えることになったら、人々はお上に何もいえない隷属社会になるだろう。それは、国民主権を謳う民主主義ではおかしいので、憲法上でも、いかなる差別待遇を受けない、とあるのは当然だと思う。
 請願の方法等は、請願法、地方自治法などに記載されている。「請願」があっても、それに縛られ、その請願の内容を実施する義務まであるというわけではなく、請願法5条では「この法律に適合する請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなかればならない。」というふうに規定されている。

 17条を見よう。「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国または公共団体に、その賠償を求めることができる。
 国等は、一般民衆と違った立場・責任がある。その立場・責任の大きさは、1個人で解決できるものでもないだろうし、私人間の問題で収まるものでもない。国等の運営における責任は国等が負うべき、だろうけど、憲法に規定がないと、立法の上でどうとでもなり、ある意味、国家賠償を認めないという考えもまかり通る恐れがある。国家としての責任、手足となって動く公務員の行為の責任を国等がきちんと負う。この規定は(当然だが)、非常に大切な憲法上あるべき規定である。なお、ここでの「法律の定める―」の法律に国家賠償法がある。

今回はここまで、パート4へ続きたいと思う。

(*2007年9月21日 )

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      第15回目                憲法を読むパート4

 個人的観点?から見る「憲法を読む」パート4です。

 18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束を受けない。また、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とある。
 奴隷とは(旺文社、国語辞典によると)、「人間としての自由や権利が認められず、他人の私有財産として労働に服し、また売買された人間」とある。個人の尊厳、平等である国民が主権者ということが基にある民主主義国家にとっては、人としての自由や権利を奪われる奴隷的拘束は認められるものではない。常識的に奴隷なんて間違っている、というのが通常の考え方だろうが、過去の歴史の中では国家が進んで人を奴隷扱いしていたりする。でも、それは君主独裁の専制政治下のこと。法の下で平等の国民が主権者で中心である民主主義国家としてはあってはならないことである。また、国家が関係しない、私人間での強制労働、人身売買も当然、認められるものではない。人を人として扱う。そんな当然のことをこの条文を見て考えたい。
 何人も、奴隷的拘束は受けないとある。犯罪による処罰の場合は、犯罪者の更正的要素もあり、意思に反する苦役を認められる。しかし、ここでも、奴隷的拘束は認められないのが、この条文からみて読み取れることだろう。犯罪の処罰の場合でも、奴隷としてでなく、一人の人間として扱うことを求められている。

 19条から21条は精神の自由に関する事柄である。内面思想等の問題は、非常に難しい。人の心を法律で強制できるものでもなく、法律で人の心を変えれるものでもない。人の心を自由に操れる装置などがあるわけでもなく、誰もある人の内面まで入り込み、その心を変えることはできない。例え、精神の自由が認められなくても、本当の意味での内面支配は誰にもできないであろう(強制的にある種の思想を埋め込むことはできよう。また、強圧的にその人の意思を操ることも可能だろう。でも、本当の意味での心の支配をできるかどうかは…。)。
内面に留まっている限り、誰もそれを知ることはできない。それを態度、言動、諸々の行動などの外部表現によって知ることが可能になる。内面にある限りは、規制しようがしまいが、干渉できない(無理やり、ある種の思想・考えを植え付けて、強制することは可能だろうが)。ただ、仕草、言動も含めた外部行為、表現については、やろうと思えばいくらでも規制できる。精神的自由は、人としての根本であろう。自然摂理からしても、それを認めないわけにはいかず、ただ民主主義国家として、社会を形成している人間の義務として、表現行為に関しては、一定のルールを必要とする。それは、社会の秩序を破壊させないため、社会という人の土台を維持するためである。

 憲法19条には、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とある。明治時代には、治安維持法等、思想を強制していた。国家が認めた思想以外は強く取り締まった歴史がある。それは、その時代のあり方であり、歴史的背景・政治の仕組みからすれば、このような方法もありうることであろう。しかし、基本的人権を尊重する現在の日本においてそれを継続するわけにもいかない。そのような歴史を繰り返さないためにも、きちんと憲法上で思想及び良心の自由を認める重大な意味がある。
 勉強していたら出てくる有名な判例の文章を挙げておく。「憲法14条、本条の規定は、専ら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律するものではない。―――――」
 この判例では、企業が労働者の思想を調べ、それを理由として採用を拒否した事例で、最高裁は採用拒否を認めている。これについては色々な考えがあると思うので、この辺で。
 憲法19条の文章そのままで考えると、良心でない「悪心」は侵しても良いというふうに考えられる。内面にある限り、誰もそれを知ることはできないのだが、見方によっては「悪心」を抱く者に対して強制的干渉を行うこともできることに…。まあ、悪い心を持つべきものではないのは当然だけど。変に文章そのまま解釈をすると、このような見方もあるということで。

 憲法20条は信教の自由等に関する内容である。「@信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。
A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。
B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 宗教は何のためにあるのか。人が人らしく生きていくための栄養、良心を育てる学び、悩みや苦痛から解放され幸せや安心を得る心の拠り所。行き詰まった時の闇に光る一筋の光明。宗教により学び育ち、そして救われる。反面、のめり込みと周りが見えなくなり、その宗教思想が絶対とし、他の思想・宗教を拒絶する。一信教が絶対になると、それに反する考えを持つ者は異端とし、排除しようとする。もし、そこが閉鎖された場所なら、異端者のレッテルを貼られた者は、生きていけない。暴力等の肉体への攻撃がなくても、無視・苛められ精神的に殺される。
あらゆるものには、表裏があるだろう。宗教も然り。人を救うものが、場合として人を殺す。例え、正しきことでも、その裏側には悪の姿が隠されている。
 社会においての宗教についてのあり方は、その国のあり方、人種思想の問題であろう。国として、1宗教を絶対とするところもあろう。日本は、国としての宗教を決定せず、信教の自由を保障している。この条文を見て思うことは、宗教を強制されないことと、政治・国家等の権力と宗教が結びつかないようにしていることである。もし、宗教を強制されるのなら、思想・良心の自由は守られない。人の心に影響する宗教が政治国家権力と合わさることは、人の支配(心の支配)に繋がりかねない。宗教をどう扱うかは、結局はその国家の考えである。「個人」を尊重する日本国憲法においては、各個人に信仰の自由を持たせ、国家的また一宗教からの強制が行われているようにしている。

 憲法21条「@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
A検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 内面作用の表現行為は基本的に自由だけど、自由には義務があることを忘れてはならない。憲法12条、13条にあるように自由にある権利の濫用禁止、公共の福祉に反しない範囲であること。それを越える自由は制限される。これは社会の秩序を守るためには必要不可欠な要素だろう。
 一切の表現の自由は保障されるとあるけど、公共の福祉に反する場合、公正・秩序のためには制限される。
検閲についての考えは次の判例の文章より「本条2項にいう検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に発表前にその内容を審査した上、不適当と認められるものの発表を禁止することをその特質として備えるものを指すが、同条項における検閲の禁止とは、公共の福祉を理由とする例外の許容も認めない絶対的禁止の趣旨である」と厳格的な判断をされるようだ。
 通信の秘密も、公共の福祉のために制限することを認められている。
 この条文に関しての判例は興味深いものが多い。機会があったら、判例六法などで見てみてください。

(*2007年10月26日)
 

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