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   第26回目              この先の家族に関する法律について考えてみるパート3

 個人的にこういった家族法体系ならいいのではないかということで考えてみたいと思う内容のパート3です。。
 今回は「扶養」を中心に考えてみたいと思っています。ここに記載する内容はあくまで個人的な意見でありますことをご留意ください

 一般的に?考えると、扶養は法律に馴染まないものだと思う。愛情、信頼、家族の絆から自発的にされるものであり、法律によって強制的に要求するものではないように思える。とはいっても、色々な理由でその一人の力では生活できないときなど、扶養の必要性が出てきたときに、それをどう求めるのか、どのようにするのか、誰が行うのかは、一応の法律上のルールを用意しておくことも重要なことだ。他の家族系、民法の内容にもいえることだが、関係者が信頼し、約束を守り、特に争うようなことがなければ、法律など必要ない。だが、当事者間だけで円満に解決しないことがあるのが、この人の社会。扶養の問題にしても、当事者間だけで解決できないこともありえる。その場合の指針として、解決の仕方として、法律があるのも意味がある。

 民法の扶養に関する法律はわずか5条で、具体的にこうしろ、という内容でなく、扶養の内容にしても「一切の事情を考慮して」と抽象的な書き方をしている。
民法877条には、扶養義務者のこと。「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある」となっている。親の未成熟な子に対しては格別、子の親に対して、兄弟間などの扶養は、本来は、愛情、家族の絆から自発的にされるものであり、法律によって強制するものでないと思われるが、誰も扶養をしようとしないときにどうするのかということも考えておかなければならない。一応の法律上の考え方では、公的扶養より私的扶養を優先している。扶養の必要性が生じたとき、まず家族、親族間で解決するべきで、家族の各人が面倒を見る力がないときは、国家が支援する。その考え方に問題はないと思う。とりあえず、現行民法の規定をみておくと、扶養のことについて、家族で決めるのが本則だが、家族間で協議できないとき、協議が整わないときは、家庭裁判所が扶養の仕方などを定めることになっている。扶養の順位も内容も、当事者間で話し合いがつかないときは、家庭裁判所で定めてもらうことになるという内容だ。ここについても、問題はないと思う。扶養のことだけでなく、どのようなことも、当事者間で解決できないときは、裁判所で決めてもらうしかないのが、法治国家、自力救済を禁止している社会の形である。特に扶養は、その方法内容についても、各事情によって違うものであり、個々個別に具体的にこうしなさいと法律で決めれるものでなく、例えば、金銭債権契約のようにお金を渡してはい終わり、というものでなく、身の回りの世話をしたり、食事を用意したりするのも扶養の一手段となる。だから、現行民法のように、抽象的な内容でもそれはそれで良く、法的判断として最終的に裁判所で決めることになるのもおかしくはない。家族、親族間でどうしようもないときは国家の支援を求めるのも当然であり、扶養の不公平感への対処としても、裁判所を利用するのも意味のあることだろう。


 親の未成熟の子に対しての扶養は別として、それ以外の子の親に対して、兄弟間などの扶養は、余裕のある範囲で行えばいいというのが、法律上の考えのようだ。つまり、余裕もなく自身生活が苦しいのに、無理してまで相手の面倒を見る必要はない。もちろん、家族の絆から、苦しくても世話をすることも個人の意思として尊重される。で、問題は、余裕もあるのに、扶養を拒む場合。また、互いに余裕があるとして、一方だけが扶養をし、もう一方は何もしようとしないとき。要求するとして、余裕のある相手が扶養を拒むときは、家庭裁判所で決めてもらうことになるだろうが、一般的な考えとして(裁判所を利用するのは)面倒だと思うだろう。ここは手続・司法実務の問題だが、国家的制度として、利用し易い司法機関の構築を行ってもらいたいとは思う(実は、司法体形次第で今有る民事問題の大抵は円滑に解決できるようになると思われる。扶養、婚姻、債権などの各法律の基礎があることが前提だが、司法体形がきっちりできていれば、民事方面はほぼ円滑に解決できると思うのだけど…。一つの見方として、完璧な法律があっても、それを実施する人や機関にそれを実施するだけの能力がない、欠陥があれば、完璧な法律も「画に描いた餅」と変わらない。反対に、法律に穴があっても、法律を実現する司法体形等がしっかりしていれば、そんな法律の欠陥も埋めることが可能だろう。誰かを何かを有利に導くために恣意的に制定した法律というのならまた話は別だが、基本的な画一的、公平な法律の場合は、結局はそれを実施する人、また国家的構造がしっかりしていれば、大抵のことはうまく解決できると思う。何か、結論が出てしまった感じである。。)。
←家族法の中である方向から見れば、婚姻(あと養子も)は他とやや異にする。その理由として、婚姻等は解消という手段があることだ。つまり、解消した後は、各個人の間はどうであれ、家族の絆はとりあえず切れ、解消するまでの問題(たとえば、財産分与等などもそう)は残るとしても、解消した後には夫婦間、養子間の問題は発生しない。成立、解消という段階で色々な制度的構築が可能なのが婚姻等なのであるが、親子の関係や扶養の関係(扶養の関係は、見方によればある種の家族、親族関係だといえる)は、切れるということはなく、そこに問題があるのなら、その親子等の関係性を考慮して解決しなければならない。ある意味、親子関係や親族関係は初めと終わりを制度的に設定できるものでない(自分たちで選んで決めるものでないということ)、ここに初めと終わりを制度的に設定できる婚姻等との違いが有る。もちろん、法律的に血族親子、親族関係を終了させるという制度を作ることも可能だけど(特別養子制度は、血族親子関係を終了させるものですね。でも、これは子供の福祉のためですけど)。扶養などは婚姻のようにわかりやすい具体的な法律制度は難しい、なぜなら、扶養などはこの方法なら問題はないというのがないからだ(一例として、お金を渡せばすむ問題と限らない)。各事情によって対応するのが最良なのが、特に扶養のあり方である。

 親子の扶養、養育費の問題なども、司法体形(執行等も含めて)によって円滑に解決できる事柄であったりする…。が、親の未成熟の子に対しての扶養について、少し考えておきたいと思う。
  親の子に対する扶養は、生活保持義務、所謂「一杯のおかゆも分かち合う」義務と考えられている。「一杯のおかゆも分かち合う」というのは一つの例えで、実際としてそこまで要求されているようではないようだ(例えば、子と別に暮らしている親の最低生活費を侵してまでの養育費義務はされない傾向)。しかし、親子の関係を考えると、親としてはそこまでしてでも子供を守り育てる愛情が必要なのだろう。家族の事柄は、根底に愛情と信頼がある。親の子供への感情は、他の親族、兄弟間とは又違った色合いを持つものだと思う。自分の子なら、他のものを投げ出しても守りたいというのも親としての一つの心情だろう。それを実現するのは、個人の意思として大いに尊重できるものだと思う。
 法律上の親子の関係として、夫婦仲良く子供を養育するのなら、扶養的問題も大して出てこない。問題は、夫婦の間に問題があるとき、別居、離婚またはそもそも片親しかわからないときもあろう。片親しかわからないとき、または親の一方が死別しているときなどは、最終的には、そういう子供に対する国家の施策の問題に帰属する。片親一人でも十分育てられるかもしれないし、そうでないかもしれない。十分育てられるかは、結局は親・保護者とその社会的制度によるが、社会的制度のほうは、その社会国家の方針によって扶養教育の大小は変わってくる。例えば、積極的に子供への福祉、教育を行う制度にするか、基本的に親・保護者に委ね、足りない部分を補うようにするか、はその社会国家の考え方次第である。…話を戻すが、夫婦間、親に亀裂があるとき、別居、離婚等になったときに、特に子に対する扶養の問題が発生し易い。別居、離婚等になった場合、法律的には、婚姻費用、養育費の問題としてお金の行き来で解決することになることが多いように見える(本当は、両親二人で直接育てれる環境にすれば良いのだけど、両親の能力やその男女の感情の問題があり、難しい。……お金での決着という、人の生活、思想まで介入できない法律の限界がそこにあるのだろう。)
 養育費として一方がお金を出すにしても、子供のため、子供への愛情があれば、拒否することもあまりないだろうが、別居、離婚後離れて、子供との繋がりが弱まれば、愛情も弱くなり、養育費を出すことに抵抗を感じるようになることも考えられる。子供と繋がりがあって、愛情があれば、子供のために、そういう金銭を出すことを惜しまないが、繋がりが途切れ、子供への愛情がわからなくなった場合などにも、同じく金銭を出せるかと考えれば、中々難しいところがあると思う。法的に、義務化させることは可能だ。しかし、親子の関係は、血縁、心情的なものが大きく作用され、その実情によっては、扶養する意思が消滅してしまうこともある。そうなれば、養育費の支払いも行わなくなる。現状の養育費の支払いをしないという内情は、離れることによる子への愛情の喪失も含め、払う側のそもそもの愛情の欠落(例:初めから子供への愛情を持てない)、我侭な思想(例:例え子供は可愛くても、自分が遊ぶ金を渡したくない)、生活基盤の弱さ(例:生活上、養育費を出す余裕がまったくない)などという起因が考えられる。これからも、個人主義の蔓延、社会的生活環境の弱体化により、金銭的養育費の支払い拒否問題は増加傾向に陥る可能性が考えられる。
 子供への愛情、まさしく「一杯のおかぬでも分かち合う」愛情の行為があるのなら、親の子に対する”法律上の扶養的問題”は起こらないが、当然皆がそうだと言えない。一つの扶養の方法として、養育費の支払いで解決するしかないのなら、子の養育のため(ここが一番重要。その子供を養育する側のためにあるものではない。そういう意味で、受け取る側も、それなりの情報提供、養育費の利用明細の提供等を必要となるかもしれない。)、支払いが途切れないような制度の構築を考える必要があるだろう。子供への愛情を確かめられる形、収入がある以上そこから養育費を出すための手段、子供の養育環境、これら一般的な債権契約より感情が左右されることを法律によって簡単に解決できるわけでもないが、表面上だけでも納得させる制度の構築は可能だろう。例えば、収入から最初に養育費分だけを預かるようにする(現行では強制執行の中で、将来に向かっての養育費も差押が可能に。)―初期の段階で、給料支払い先と連携し、養育費分を確実に受け取ることができる方法など(…但し、問題も多く考えられる)。離婚時など、制度的にその後の親子の接触の取り決めを義務化させるなど(…これも、将来での問題が考えられるが、それはそれで、その場で対応できる仕組みにしておけば…。また、例えば、離婚等の要因が、その親の虐待等が原因の場合は、反対に接触させない手段を考えないといけなくなる。)。なお、親に子を養育する力がない場合どうするかは、(積極的に関わるか、足りない分だけ補うかどうかなど)その社会国家の考え方次第である。
 大いに感情が左右される事柄だから、完璧な法構築は難しいが、司法体形、社会体系をうまく作ることで円滑に解決できるようになると考えられる。今は、結局時間がかかり、手間が大きすぎる、また強制の不公平感が見えるのが問題であり…。

(*2008年10月31日)

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    第27回目                      憲法を読むパート13

  個人的観点で?憲法を読むパート13です。
 65条以下、「内閣」に関しての事項を見て行きたいと思います。

  憲法65条「行政権は、内閣に属する。
 三権分立。行政、立法、司法の内、「行政権」は「内閣」に属するとなっている。その他、立法権は、国の唯一の立法機関として「国会」に、司法権は、76条で「最高裁判所等」に属することになる。この行政権は、国家の統治権から立法権、司法権を除いたものの総称を言うように考えられているようだ。法治国家にとって、行政とは、憲法法律に基づいて実質的な国家運営を行う機関であるといえよう。一つの集団的組織である以上、組織の中心となるものが必要となる。行政では、「内閣」がその組織の中心として置かれているわけだ。


 憲法66条「@内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。A内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。B内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。
 行政権の中心的位置にある「内閣」の組織構成は、本条1項に定められている。首長たる内閣総理大臣とその他の国務大臣で「内閣」は組織するということになっている。法律の定めるところにより、と内閣法の組織に関する箇所で憲法事項と同等の内容と、国務大臣の数について規定されている。内閣法によると、その国務大臣の数は14人以下、特別に必要があるときは17人以内とすることができる、となっている。内閣法という法律事項なので、国会による法律改正で、国務大臣の人数の箇所は変更できることになる。その他、「内閣」としての国家的立場がわかる内容が内閣法を見るとわかるものが多いので、幾つか記載しておく。
内閣法4条 「@内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする。A閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。〜」
内閣法5条「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告する。」
内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する。
内閣法3条「@各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する。A前項の規定は、行政事務を分担管理しない大臣の存ずることをを妨げるものではない。」
……「行政権」は「内閣」に属するが、その内閣の中での中心が「内閣総理大臣」である。下68条のこともあり、内閣総理大臣が、行政各部の中心的存在といえよう。ある意味、行政権の指揮監督の中心的権限は内閣総理大臣にあると考えられ、内閣総理大臣の行動次第で行政権の活動が左右される。もちろん、法治国家で、国権の最高機関は国会にあることから、行政権の活動は、憲法等に制約される。加えて、本条3項の国会に対し連帯して責任を負う、議院内閣制を取っていることもあり、また内閣総理大臣の指名また信任を判断できる立場にいる国会が、実質的には、行政権の行動を操作できると考えていいのかもしれないが、当然、こういう意味では欠点があり、三権分立制の互いの同等的力関係を維持するべきもの、という考えからすれば、行政権、少なくともその中心は完全に独立させるべきだと思うが、現憲法では、内閣総理大臣は、国会(特に衆議院)と密接に関係している。国家制度の良し悪しなんてそれぞれで、この議院内閣制が悪いわけでもなく、その国家にとっては、この方法が最良ということもあろう。ただ、現状の政治を見ている中では、国会と内閣総理大臣が密接に関係しているこの制度はいささか問題があるように見える。特に、国権の最高機関である国会が、全体の奉仕者としての意識がなければ…また、内閣総理大臣が国会の構成員の一人でもあることから、国会に政治能力がなければ、たちまちその国の政治は瓦解する可能性がある。やはり、少なくとも、行政権の首長は、国会等に関わらない独立者であるべきだと思うがどうなのだろうか?(もちろん、そうなったとしても欠点は現れるだろうが)。

 過去の戦争のこともあり、内閣を組織する内閣総理大臣や国務大臣は、文民でなければならない、となっている。まあ、時代が時代なら、軍事的判断能力がある人が、国家のトップ又は側近にいなければ、その国は他に侵略され守れないかもしれないが、今の日本ではそこまで要求されていないのだろうか。少なくとも、自衛権のあることが、独立国家としての条件の一つだと考える。いざというとき、適切に指揮ができ、国を守れるのならそれでいいのだろう。


 憲法67条「@内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決でこれを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行う。A衆議院と参議院とが異なった指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
  「政治を行う」行政の長といえる「内閣総理大臣」の指名は、国会の議決で決まることになる。その後の、天皇による任命は、形式的(儀式的)なものに過ぎないので、実質、国会…法律案の議決等のように、衆議院の優越があるので…その内、衆議院が内閣総理大臣を決定するといっても間違ってはいないだろう。下69条のこともあり、衆議院の思考が、内閣総理大臣の行動に大きく左右されかねない危険性がみえる。国会が国権の最高機関と謳っている以上、国会に国の政治の根源があるのもそれはそれでいいのだろうが、先にも述べたように、国会に政治能力がなければ、その国の政治は崩れてしまう危険性がある。

 
 憲法68条「@内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばなければならない。A内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免できる。
  内閣総理大臣と共に「内閣」を組織する国務大臣の人事権限は、内閣総理大臣にあることになっている。過半数は、国会議員からという決まりはあるが、行政を指揮監督する内閣総理大臣の意識が「行政権」に強く反映される。三権分立の「行政権」の独立から考えれば、行政組織の重要箇所の決定を行政の長といえる内閣総理大臣にあることは必要なことだろう。

 憲法69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない。
 憲法70条「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない。
 69条は「内閣」が暴走したときの、対処法といえる。三権分立で各自が監視監督するための方策の一つといえるであろうが、ただ衆議院が恣意的にこの規定を利用すれば、政治は混迷に陥る可能性がある。「良識の府」として機能するのなら、参議院によるここでの衆議院決議の否定権があっても良いと思う。
 「内閣」から見て、衆議院への監視監督の方策として「衆議院の解散」(衆議院の解散の行為者は天皇であるが、天皇の行為は形式的なものであり、内閣の助言と承認により行うので、実質的には内閣にその権限があるといっていいだろう。)がある。70条により、その後、内閣は総辞職することになるが、国権の中心的位置にある衆議院の構成を、主権のある国民の判断に委ねるということに重要な意味があると思う。

 内閣、内閣総理大臣と、衆議院との密接な関係から、衆議院の解散も主権者である国民のためというより、政争の具として利用されてしまう可能性がある。国会議員であり、また国会…とくに衆議院の議決よって、決められる内閣総理大臣は、その時の衆議院与党に属し、その政党の影響を強く受けることが多いだろう。そのため、「行政権」としての内閣、内閣総理大臣独自の判断というより、衆議院与党の判断で、衆議院の解散が行われてしまう可能性は否定できない。この場合、恣意的に自分たちの有利な場面で解散を行うこともありえて、それがそのまま、最高4年の任期の少なくともその間は、国民の意思など関係なく、思うような政治を行うことができてしまう(直接的な政治担当者でない国民側から解散させる方法がないから、少なくともその間は好きなようにできてしまう可能性がある。)。そしてまた任期が来る前の最も有利と思われるときに解散して、十分な議席を取る、そういったサイクルが続けられてしまう危険性がある。国民をないがしろにして好き勝手した政党など票が入らないのではないかと思いきや、一時的にも政策で国民の喜ばれることにして、また、国民が求めるある事項を一つの争点としてその一つの国民を求めることを行うことを公約にした場合、瞬時的な判断でその政党に投票する人もいるかもしれない。そう自分たちに有利な状況を作り出し、最も有利だと思われる時点で解散を行えてしまう。現行の内閣、内閣総理大臣と衆議院との密接な関係からこういった弊害が起きる危険性は否定できない。憲法や国家制度の問題というより、現状の民主主義の欠陥がこういう所にあるのかもしれない。

 なお、内閣総理大臣が欠けたとき(病気で死亡したときなど)には、内閣法によると、予め指名する国務大臣が、臨時に内閣総理大臣の職務を行うことになっている。
 

 憲法71条「前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行う。
 当たり前のように見えて、必要な規定で、また内閣の職務は重要な事項なので、職務の空白を作らないために、どこに権限があるのかどうか示すために、71条のような規定は必要になると考えられる。憲法に規定しておかないと(法律などで決めることになると自由に決めれることになりかねず)、悪意ある者に、内閣の職務を執り行われてしまう危険性があるわけだ。


 個人的観点で?憲法を読む、72条以下次回も引き続き内閣の箇所を見て行きたいと思っています。。

(*2008年11月25日 )

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   第28回目                          憲法を読むパート14

 個人的観点で?憲法を読むパート14です。
 72条以下、引き続き「内閣」に関する事項です。

 憲法72条「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会の報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
 憲法73条「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行う。1 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。2 外交関係を処理すること。3 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を得ることを必要とする。4 法律の定める基準に従い、官吏に関する事務を掌握すること。5 予算を作成して国会に提出すること。6 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。7 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。」

 憲法72条、73条で、内閣総理大臣の職務と内閣の事務に関して規定されている。各、職権の違いとして、試験問題で出題されそうな内容だが、とりあえず、内閣等の職務として憲法に規定されることに意義がある。こうして憲法に規定されることで、行政権の制限と、また、国会立法権による行政権への意図的侵略を防げる。
 さて、内閣総理大臣は、内閣の首長、代表者として、議案の国会提出、国務・外交関係の国会への報告とそして、行政各部を指揮監督する職権が認められている。議案の国会提出は内閣の代表者としての職務(議案の発議は、国会法のよるところ国会議員も可能。内閣の職務を行うのは、閣議による。各省大臣は、法律等の制定などが必要なとき、内閣総理大臣に案を提出して閣議を求めなければならないとされている。)、一般国務、外交関係の報告は、国政に就いている者としての義務的意味合いが強いように思える。そして、行政各部の指揮監督は行政権の首長である者として必要不可欠な職務といえよう。
 行政は、法治国家内では、憲法等の規定に従って、その事務を行うことになる。法理を超えた職務が許されるかどうかは、議論の的となろうが、緊急有事の際には認められなければ、国家を守れない可能性はある。内閣総理大臣の行政各部の指揮監督で緊急有事の際の国家防衛(他国による武力問題だけでなく、自然災害、国内の人災、経済壊滅などでの騒動も)が十分かどうかは難しい。ここでは、国民に対する直接的な指示権はないよう思える。その国民に対する直接的な指示には、通常は法規による別枠の授権が必要となろう(そもそも”法律”で認められるかどうかも難しい問題だが、まさしく緊急時には、公共の福祉の観点から認められるか?)が、本当に緊急時には法律の制定などに時間を使っている暇などない。行政各部で万が一のときの問題を解決することもできることもあるだろうが、さて…。
 これは一つの話であり、基本的に、行政は法規に従って行動しなければならないのは間違いではない(そうでないと、「三権分立」の意味もなくなりますし)。
 
 内閣の職務として、73条で一般行政事務の外、重要な7つの事務を列挙している。他、憲法の中で、天皇の国事行為に関する助言と承認、最高裁判所の長たる裁判官の指名、参議院の緊急集会を求めること、(最高裁判所の長たる裁判官以外の)裁判官の任命などが内閣の権能として認められている。
 73条内、1号や4号は、行政権としての立場、内閣の地位として当然の、必要な事項であり、2号、3号も行政の業務として重要なことだろう(国家統治を考えて、内政と外交・外政という分け方ができる。行政権には両方含まれていると考えるべきなのだろうか。内政の長と外政の長とその両方を監督する国主というような国家構造も考えられる。もちろん、それぞれ、各大臣、総理大臣として考えれば違いはないが、実質上の位置づけとして、内閣総理大臣が内政外政の両方の長としての役割となっている。内政、外政と両方とも「政治」の一貫であり、政(まつりこと)を行うと書く、行政がその職務を行うことに異論はないと思う。)。条約は法規に位置するものといえ、立法府…国会による承認を必要とする意味もわかる。
 5号。行政各部の働くエネルギーといえる予算の作成を、当該行政機関を監督し、内情を把握している内閣が作成することに意義がある。ただ、行政機関として、行政のための予算を作成することは、自分たちの利益のために作ることも考えられ、それを防ぐための意味でも、憲法上では、終局、財政を処理する権限は国会の議決に基いて行使しなければならないとされている。
 6号の政令の制定に関する事項は、特に憲法に記載することが必要な事項だと考える。基本的に、法規の作成は、立法機関である国会の権限である。内部統治のために行政機関内の規則を作成すること自体は、組織を維持するために必要なもので、実際その組織を運営する内閣等に任せても問題はない(組織法関連は法律で定められている)が、この政令は、法律等を実施するためのものとして、直接国民のルールの一部となりえるものである。例え、法規を実行するために必要不可欠のものとしても、国民に影響を与えかねないものを立法機関でない行政機関が作ることは三権分立から考えても、問題が大きい。しかし、実際に法規に従って、国家運営を行うのは行政機関である以上、法規を運営するための決まりもまた必要となる。基本、法治国家では、その法規の授権がない以上、国家、国民に影響するような行動を行政機関は勝手にできない。こうして憲法において定められることによって、行政権の抑制という意味も併せ、法律等の実施のために必要な規律を作ることが認められるわけだ。
行政の立場から、国民の行動のルール作りは必要であり、正しいルールを守らない人には、それ相当の刑罰を与えることも、国家秩序のためには必要なことだ。罪刑法定主義の観点から、特に刑罰に関しては法律の委任が必要なのも当然のことなのだろう。
 7号は、ある種の犯罪(政治犯系、言論統制による罪や一部の都合で刑罰化した特定物の保持の罪などが考えられる)、刑罰を受けた特定の者を免除、減刑等するものだが、一般的な殺人、傷害などによる犯罪者を意味もなく許すものでないと考えたい。ある日、ある時の国家の都合で犯罪者とされたり、行き過ぎた統制的刑罰を是正するため、このような手段を用意しておくことは、大きく国家秩序を守るため必要なことである。国家統治者ならではの権限とも言える事柄だと思う(天皇の行為は形式的なものであるけど、恩赦の『認証』は天皇の国事行為の一つに掲げられている。)。


 憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
  この制定された法律等を執行するのは行政各部であるので、その執行責任(政令にあっては、制定責任もある)を明らかにするために主任の大臣及び内閣の代表者としての内閣総理大臣の署名を必要とされる。ただ、この署名は形式的なものと言え、実際、執行に問題があったとき、本当に責任を負うのかは疑わしい。執行側に問題、責任を問われる事項があるとして、憲法上では、内閣総理大臣の国務大臣の罷免、国会・衆議院による内閣の不信任決議の方法があるが、あくまでこれは「辞めさせることができる」だけのものであり、実際損害を受けた国家、国民側への責任義務は果たしているとは言い切れない。現憲法では、政治側への責任を問う規定はないが、義務違反に対する罰則がないと好き勝手する人間もいることを考えれば、必要に応じた政治・行政側への刑罰的規定も、憲法上で用意するべきかもしれない。


 憲法75条「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害されない。
  滞りなく国務を遂行するために、考えられた規定だと思う。国務大臣は、内閣を構成する一員であり、また各行政箇所を指揮監督する重要な地位である。その国務大臣が、訴追されることにより、各行政各部の働きが遅延し、一体としての内閣の職務遂行に問題が発生する可能性がある。政治紛争から起きる不当な訴追による圧力防止という意味合いもあると考える。とはいっても、実質、犯罪を起こした者を国務に就かせることは、国家秩序から見ても問題があり、一般的に国民も納得しないだろう。だが、その個人的な事実と政治能力はまた別物であり、非常に優れた政治能力を持つ者を政治の場から排除することはそれはそれで国家として損失となりえる。この天秤をどう判断するかは、行政府の長といえる内閣総理大臣の役目であり、最終的には、内閣総理大臣の先見の力、指導力に依ることになる。

 政治に携わる者は悪戯に過去を問うてはならない。その能力を見抜き、採用してこそ、国家安定の礎を築くことがまた叶う。人の罪を国家の罪と見るかどうかは、主権者の資質による。人こそ国家社会の価値、反面、人を大事にしない者に国家に携わる資格無し。


 次の個人的観点で?憲法を読むは76条からの司法に関しての事項を見て行きたいと思っています。

(*2008年12月25日 )

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    第29回目                          憲法を読むパート15

 個人的観点で?憲法を読むパート15です。
 76条以下の「司法」に関して見ていこうと思います。

 憲法76条「@すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。A特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない。Bすべて裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 憲法で他に規定されている箇所(弾劾裁判所など)を除いて、すべて司法権は裁判所に属することになっている。「行政権」「立法権」「司法権」の三権分立のうち、「司法権」は最高裁判所以下の裁判所に属する。
 「司法」とは一体何なのか。国語辞典を見ると、「国家が具体的な事件に法規を適用して紛争を解決する作用」(旺文社、国語辞典第八版より)とある。紛争を解決する作用…民事、刑事、行政事件の如何に問わず、一切の法律上の争訟の裁判を行うことが「司法」ということになるのだろうか。
 三権分立から見れば、「司法」は、「立法」で制定される、「行政」で運用される法律等の監督・監視役になるものだと思う。法治国家で、憲法がその第一にある国家として、憲法を維持し、そして、その憲法の内容から派生される各法律等の監督が、「司法権」に求められる職務なのではないかと考える。法治国家は、憲法という第一法規に従って、国家の安定・秩序を維持する。国家の構成員は、憲法以下の法規に従ってその社会を構成し、日々の生活を送ることになる。法規という社会ルールが、その国家で生きる人々のルールとして存在し、もしそのルールに違反する人がいれば、そのルールを守るように促し、また、ルール違反に伴う罰を与えることもあろう。加えて、その社会にとってより良い結果をもたらした人に対して、褒賞を与えることも社会の一ルールとして歓迎される事項だと思う。そんな法規という社会のルールを監視し、監督することが、「司法権」に与えられた職務なのではないかと個人的には考える。監視監督する「司法」機関は、その法規…法律等のルールそのものが憲法に違反するのなら是正し、また”正しい”ルールを守らない人に対しては定まった規律に伴い刑罰等を科す。……現状の日本を考えると、「司法」機関は法律に従った紛争の解決場所というものであることが見て取れる。つまり、「司法」機関である裁判所に紛争解決を求められて初めてその機能が発揮する。法律上の解決を行う前の…法律違反の取締り(逮捕等)に関しては警察…「行政」機関がその権限を持ち、刑事等においては警察による取締り等を通して、「司法」機関に法律上の決着を求める。ここにおいて、「司法」機関が自ら積極的に動いて、憲法・法律というルールを維持する行動は可能なのだろうか。個人的に見ている範囲では、裁判所に事件を持ち込まれて初めてその職務が働き出す。現状の司法システムは、ある種の事後処理システムだと言え、憲法等を維持監督するのに消極的な構造のように見える。実は、「司法」といっても憲法法律に従った活動をするという観点では、「行政」と何ら変わりはない。司法機関は、ある意味で行政機関であり、ただ、その職務に違いがあるだけである。三権分立をはっきりさせるためには、「司法権」独自の権限というものを与え、「行政権」「立法権」をも監視できる形にする必要がある。憲法違反、また”正しい”法律等に違反しているのなら、行政権だろうと何だろうと是正させる権限が「司法」機関になければ、本当の意味での三権分立は成り立たないと思う。国内の社会秩序を守るためには、司法権限の働き(憲法等を確実に守れる形)が必要なのだが、それだけの制度体系であるのか疑問に感じるところはある。

 
 司法権の独立を考えると、76条1項以外の最高裁判所等に属さない、特別裁判所の設置を認めるべきでないのは当然のことなのだろう。権力者側が、恣意的に自分たちに有利になるための特別な裁判所を置くことができないようにするだけでも意義はある。一つ思うのは、主権のある国民側から見て、特に公務従事者を律するための裁判所の設置はできないのかどうか。最高裁判所を頂点とする範囲では、限定的な裁判所の設置も可能に見えるが、そんな最高裁判所の職務者も範囲とする裁判所の設置はこの憲法の条文を読む限り、無理だと推測する。公務従事者が事実、憲法等を遵守して職務を行うのなら、法治国家上は問題ないのだが、その中で公務を蔑ろにし自己利益のために、公的な立場を利用する人はいないとは言い切れない。国家の公安機関がそんな人を確実に取り締まれるのなら、それはそれで十分なのだろう。また、国民側が恣意的に懲戒制度を扱うことになるのは、安定秩序を破壊する原因になりかねない危険性も見て取れる。結局は、民・公関係ない平等な(その立場上の区別があるのは必要なこと)司法体形が確立されているかどうかだが、やや公務従事者に甘い体形になっているように思えるのは気のせいなのだろうか。
 行政機関は、終審として裁判を行うことができない。前審として、その職務に詳しい行政機関がその審判をすることは、迅速かつ適切に運営するためにも必要なことだろう。民民のように行政機関と直接関係のない第三者的観点で審査するのはともかく、民公(行)と自分たちに関して審査する場合は、どうしても贔屓目が出てくる。さすがに、行政機関の審判で終わりというのは、行政司法の関係や平等原理からしても問題がある。当事者となる当該機関以外が審査する、行政機関でない司法機関が審査する道を築くのは当然かつ必要なことだろう。


 三権分立の立場からしても、裁判官が行政、立法府の命令指揮下に入ることは、さすがに問題がある。裁判は、基本公平な立場で行わなければならないものであり、裁判を主宰する裁判官は何らかの権力によってその行動を左右されるべきではない。法規に従って行動し、そして、法規にない事情の場合は、その良心に従い、その職を果たすのが裁判官という者なのだろう。



 憲法77条「@最高裁判所は訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。A検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。B最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
  内部規律を、その組織長が管理運営するのは必要なことである。内部規律や司法事務に関する事項は、裁判に関連する国民にも関わることであり、何の名目もなく認めるわけにはいかないので、こうして憲法上に規定する必要があるのだろう。立法権への侵害とならないためにも、憲法上で認める必要性がある。
 

 憲法78条「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行うことはできない。
  司法権、裁判官の独立を保障するためにこうして裁判官の身分保障を規定している。法規に違反した裁判官を律する体形になっているのであれば、特に問題のないところ。一部…例えば、その行動自体は法規に違反していなくても、(ある宗教的なものに熱中している場合等で)思想が極端に偏っている場合はどのようにするのか。その思想が判決として現れた場合、国民等に不当な被害がもたらされる可能性がある。そのような裁判官については、人事を管理運営する機関の対応が非常に重要になってくる。が、こうして憲法で裁判官の身分保障を認めていることもあって、もし何らかの(懲戒)処分をするのにも裁判をしないといけないという法体系になっている。司法組織を適切に管理する範囲では、やや迅速、適合性に欠けているのではないかと思ってしまうのが気になるところ。公平な目で見られる司法の人事権限機関が別途あっても良いのではないかと思うが、やはり人的な問題(人の性質、欲望)などで難しいところがあるだろうか。

 司法が何らかの権力に屈したら、国家の法は、有名無実と化す。

**「憲法81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」重要条文。司法権に認められないといけない大切な権限事項。司法を考える中で、この内容は欠かせないので、乗せています。詳しくは、次回の「憲法を読む」で。
 次回、司法に関する範囲を引き続き、見ていこうと思っています。。

(*2009年1月30日 )

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    第30回目                           憲法を読むパート16

 個人的観点で?憲法を読むパート16です。
 前回と継続して、司法に関する範囲を見ていこうと思います。

 憲法79条@最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外はの裁判官は、内閣でこれを任命する。A最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。B前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。C審査に関する事項は、法律でこれを定める。D最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達したときに退官する。E最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

 最高裁判所の構成に関しての規定である。司法の構造の根拠が、立法府下にあることは三権分立の観点からも問題があり、こうして憲法で規定することに意義はある。
 さて、この内容だが、1項に最高裁判所の構成員の任命権について。最高裁判所の長は、天皇が任命すると6条にあるが、これは形式行為といえ、実質的には、指名する内閣にその権限があると言っても良いと思う。前回までの箇所でも指摘したことだが、現憲法の統治構造は、衆議院の実情が大きく左右され、この最高裁判所の構成員の任命も、内閣と繋がる衆議院政権与党の意向が大きく反映される可能性がある。国会が国権の最高機関で、議院内閣制・議会制民主主義を採っている中では、それはそれで構わないのだが、ここでも、その衆議院政権与党に懐疑・問題があると、司法権限も壊れてしまうかもしれない。ただ、内閣と違って、裁判官には、強い身分保障が憲法上規定されており、どちらかといえば、裁判官個人の資質が重要になっている。本条も含め、憲法上で裁判官の強い身分保障の規定があるのは、他の権力に左右されないようにするためだと考える。逆に言うと、その裁判官個人の資質に問題がある場合は、その任を解かれなければ国家秩序は守れない。こうして、本条で国民審査の規定があるのも、その理由の一つなのであろう。

 最高裁判所の裁判官には、他の…例えば国会議員や内閣担当者に無い国民審査の規定がある。判例などで最高裁判所の定めた法規の指針は国家の法規に影響を与えるものであり、それは直接国民にも関わってくるものである。しかし、国会議員と違い、裁判官の選定は直接国民が行うものでない。もし、当該裁判官に最高裁判所の裁判官としての資質がないとしても、国民が何もできず、そのまま資質なき裁判官によって、法規が捻じ曲げられたら、国家の安定は壊れかねない。例え、定められた条件下でも、いざというとき身分保障の強い裁判官に対して、その職務を剥奪させる権限を国民が持つのは、国民主権という名の下では、意味のあることであろう。ただ、主権を有する国民が優秀でなければ、こういう審査権は、逆に何らかの思想・勢力・権力によって恣意的に利用され、優秀な裁判官を追い出すことになりかねないので、厳格に規定される必要性がある。
 人間の本質、社会の本質等とのジレンマなのだが、国家制度の在り方に完璧な正解というものを見出すのは難しく、結局はそれを運用する人間次第で善悪は変わる。こういう国民審査権を、立法や行政の分野に置くことも一つの国家制度であり、有意義な部分もあるが、反面、国民審査権があるがゆえに、国家秩序が捻じ曲がる可能性もある。考えようによっては、君主制政治の方が、改革を行い易い面があり、民主主義を遂行するには、その国家の一人一人が賢くなければ、その国家社会の未来は暗闇に陥ることを意識しておきたい。


 憲法80条「@下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達したときには退官する。A下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

 79条とあわせ、司法権の構造についての規定である。(78条にも同等の内容がある…)気になるのは、報酬は、在任中、減額することができないという内容。裁判官の身分保障を考えれば、必要で意味のある規定だが、例えば、国家資産が弱体化しても、変わらず同等の報酬を与えなければならないのかと考えると疑問に思う。極端、(経済的)国家基盤を失わせてまで、裁判官の身分を守る必要性はなく、これは、相当額の歳費を受け取れる国会議員にも言えることだが、当該国家の状況によっては、受け取る報酬等の差異も必要なのではないか。公務に関係する者である以上、一般の公務員もそうだが、国家が赤字なのに、変わらない金銭を得ることには矛盾がある。制度上の問題だが、何百年も続く国家を構成するためには、赤字の先延ばし、赤字の積み上げなんてあってはならない事柄、それを認めるしかない制度はやはりどこか欠陥があるとしか言えないのは悲しいことだ。公務従事者の身分保障は、究極、国家があってのこと、そして、国民主権民主主義の中では、国民の生活を守ってこそ認められるもの。国家の体力を弱らせ、国民の生活を蔑ろにしてまで、認められる必要性はないと思う。


 憲法81条 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
 
 違憲立法審査権。法治国家の司法権にとって重要不可欠な権限であり、守らなければならない規定である。
 この権限により、三権分立における立法府、行政府への監視的役割を行うことができるようになる。
 さて、この条文に関しての判例を見ていると、この違憲審査権は、最高裁判所固有の権限としての抽象的意味の審査権は有せず、具体的訴訟事件に当たり、その具体的事件において法令違憲や適用違憲を審査する、という考えになっているようだ。前回でも記述したことだが、現状のシステムは、ある種の事後処理システムのような感じがして、これで本当に、「司法権の立場からして」憲法・法規を適切に維持監督することができるのかと考えると疑問に思うところがある。
 法律は、国権の最高機関である国会が、国民の代表者とされる国会の構成員によって制定されるもので、ある意味、国民が間接的にその法律制定に関わっていることになる。だから、司法権として、独自の権限で個々の法律に対して監査、否定するのは、国民の意思を蔑ろにすることになりかねず、国民主権の民主主義国家としては認めがたい。ただ、これは、当該議会制民主主義が適切に遂行され、国民の意思が反映されていることが前提の事柄であり、当該議会制民主主義に穴がある場合、その議会…国会自体が国民の意思を蔑ろにしている場合は話が変わる。国民の意思を蔑ろにし、議会構成員等の私利私欲のために、国会が法律制定することは、国民主権を否定することと同様、国家秩序は瓦解することになろう。そう、議会の恣意的な考えで制定された法規を是正するのが司法権に求められた職務の一つであり、そのため、必要な範囲で、法規の審査権を有する必要がある。個々の具体的事件に即して審査権を有しているだけでは、損害を事前に防ぐことができず、裁判所に持ち込まれ、裁判が終わるまで(加えてその違憲法規の効果を失わせる行為があって)、多大な損害を国民に与えかねない。しかし、司法権に法規審査の強権力を持たせることも、司法権関係者の恣意的行為に利用された場合、それはそれで秩序破壊に繋がることになる。結局は、公務従事者の資質、良心次第という結論に陥ってしまうのだが、司法権の立場として、国家秩序を維持する能力は必要だと思う。ただ現状、司法権が積極的に国家秩序の維持に参加できるほどの社会構造、教育制度とは言いがたく、実質行おうとすると国家システム全体の変革を行わなければならないであろう。一憲法の解釈、運用だけで、話が上手く行くわけでないのが、国家運営の難しいところだと思う。

 国家行政等は、憲法法律等に従って行動するわけだが、主に他国との関わりにおいては、国内法規だけで話が決まるものでなく、いわゆる国防分野などは違憲審査権に馴染まないところがある。つまり、国防、外交関係など高度な政治性を求められている分野では、例え、司法からその行為が違憲と判断するとしても、それで国家が守れるとは限らない。防衛のためだとしても戦争行為はしてはならない、ともし司法が判断してその通りしなければならないのなら、この国は簡単に他国に占領され、最悪国民は無残に殺されることになろう。法規に沿っただけでは、解決できない分野はあり、そういった高度な分野では、司法権の権限は及ばない。もちろん、及ばないとしても、何をしてもいいわけでないのは当然のことで、高度な政治性を求められている分野でも、適切な手段を持って行わなければならないのは当たり前のことである。国防分野でもルールに従って行動するのは当然のことで、そのルール違反に対しては司法権が介入する必要性が考えられる。


 憲法82条「@裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行う。A裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行うことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となっている事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」 

 密室で行われた裁判では、本当に適切に定められた手続にのっとって、いや、表面上は定められた手続にのっとって行われていたとしても、裁判官を含めた各人の思想、利益等によって、判断が捻じ曲げられてしまう可能性は否定できない。特に、司法権が欲や権力に屈した場合の国民の被害はかなり大きなものとなり、国家秩序は壊れてしまう。公開にして、国民の目を入れることで、恣意的な裁判を防ぐ意図がある。公正に行われるのなら、必ずしも公開する必要もないが、特に国民の自由生活に関わる分野では、国民主権の理念に沿う意味でも公開にする必要性はあろう。公開し、一般的に知られることで逆に公の秩序等に多大な影響を与えることになるものは、非公開にする方がより適切なことがある。公開が原則だが、天秤の重き、国民生活を守るためにあえて非公開にすることが必要な場合もあろう。


 司法は、大きく国家を守るために存在する。ここに国家秩序を維持監督する権能がなければ、国家体制はどこかで綻び、いつしか修復できないほどの“地獄の穴”が開くことになるであろう。。

(*2009年2月25日 )

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   第31回目                           憲法を読むパート17

 個人的観点で?憲法を読むパート17です。
 今回は、83条以下、財政の範囲について見ていこうと思っています。

 
 憲法84条「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。

 憲法83条「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを行使しなければならない。
 憲法85条「国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。
 憲法86条「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を得なければらない。
 憲法87条「@予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基づいて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。Aすべて予備費の支出については、内角は、事後に国会の承諾を得なければならない。」


 国民主権民主主義にとって、昔風に言うと年貢…税金は、国民のために使わなければならない。本来なら、国民主権として、国民が国家を運営するための基盤として、これら税金を集め利用することになるのだろうが、現在においても、その昔風に言う年貢のように、「お上」の意向で税金を納めているイメージが拭いきれない。憲法を読むパート8の30条、納税の義務(リンク)のところでも考えたことだが、今の社会は、税金によって、国家を運営維持する制度になっており、国民が税金を納めることで、間接的にも国民が国家の運営維持に関わることになる。そういう意味で、納税義務があるのも納得できることだが、(その納税の義務のところでも思ったことだが)国民主権と言っても、結局は、国民と国家権力の間には力関係の格差があり、国民生活の現状などと関わりなく、ある意味、国家の思惑(政治関係者を含めた公務従事者などの思惑)で税金の内容も決まり、国民は拒否することも出来ず、国家で決められた税金を納めなければならない。
 この昔風に言うと年貢、税金というものは、究極は、強制でなく、各自自分の意志で納めるもの…国家に対しての恩義として年貢を持参する、つまり、国家が国民生活を守る、国家が国民生活を守ってくれているその感謝の手段として、金銭や物を納めるのであると思う。しかし、税金を任意にすると、もちろん、支払わない人がでてくるわけで、最悪ほぼ全員が税金を支払わないことになる可能性もあり、そうなると、国家の基盤は崩れ、消滅することになろう。究極的に考えると任意であるべきだが、強制であることにも意義があり、先ほども述べたが、税金を納めることで間接的にでも国民が国家の運営維持に関わるわけだから、税金を支払うことも国家の主権者としての義務だといえよう。ここで考えるべきことは、その税金が本当に国民のため、そして、国家の発展維持のために使われているかどうかである。もし、税金が国民や国家を維持するために使われていないのなら、国民主権の立場からして、国家権力に対し、税金を支払う必要性はなくなる。でも、義務という名の強制であるが故、例え、公の機関、国家権力側が税金を恣意的に利用しても拒否できず、拒否した場合は、権力の下、罰せられる。
 国民主権の対場からしても、納税の必要性はある、しかし、国民主権の立場からして、納税する必要性があるのかというと、結局は、国民=国家となっているかどうかで決まる。国民をないがしろにした一部の者が利益を上げるための国家運営になっているのなら、この憲法で定められた納税の必要性も瓦解するだろう。

 税金…国家の財は、主権者である国民が納得できるような適切に、大切に使わなければならない。国民の代表者である国会議員がそれら財政関係の議決権があるのは当然のことで、国民はその国民の代表者を通じて、国家財政を監督することになる(だからこそ、一部の奉仕者でなく、議員等公務員は全体の奉仕者でなければならない)。
 重要な「租税法律主義」も、法治国家としてまた、議会制民主主義からすれば、至極当然のことであって、いわゆる「お上」の意向による”年貢”の略奪を防ぐ意図も含め、国民の代表者といえる国会で決められた法律で管理運営しなければならない。
 租税法律主義に関して、興味深い判例文章を挙げると、「租税の創設改廃はもとより、納税義務者・課税標準・徴税の手続はすべて法律に基づいて定めなければならない−。」「租税法律(条例)主義は、課税要件法定主義と課税要件明確主義を含んでおり〜不明確・不確実な概念を用いることは、〜許容できない。」
 国民の統制の下に置くためにも、国民主権のちゃんとルールに則った手段で租税について取り決める必要性がある。国家、役所等で(強制的に)徴収することになるものは、すべて定められたルールに則って行わなければ、国民に不当な損害を齎すことになりかねない。租税また手数料等の支払う必要性があるものは、具体的に明確に取り決められ、国民側がその内容を把握できるものでなければならず、権力側の恣意的行為を監視する意味でも、法規によって取り決める必要性がある。法治国家としても、国家側の行為を法規で取り決めるのは当然のことで、国民に直接影響を与えることになる税金等に関しては、特に強く堅く法規によって定めなければならないだろう。
 
 定められた手段によって徴収された税金等の財を…実際、国家の財を用いて運営指針を行うのは、内閣に与えられた役目であり、予算という形で決められた財政の良し悪しを国民の代表者で構成された国会が審議する。状況によっては、緊急を要する場合があろうが、87条にあるように、最終的に国会の承諾を必要とすることで、国民主権の立場が崩されないように考えられている。



 憲法88条「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を得なければならない。
 憲法89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 皇室、特別の組織等に権力が集まるのを防ぐために必要な規定といえる。また、国民全体に関係ない組織に公金等を用いることは、平等原則にも反することになり、国家そのものを傾けるかもしれない財閥組織の発生を防ぐためにも憲法上できちんと規定する必要性がある。89条は、政教分離の観点からも必要な規定であろう。


 憲法90条「@国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。A会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。

 予算として決められたことを、正しく執行されているのか監督、確認するために、予算執行の責任者である内閣に属しない会計検査院の検査と、国会への提出(審査)を必要とする。会計検査院と国会という二重の監督を得ることで、財政処理をより確かなものとでき、大切な税金等の適切な管理運営が可能となる。予算、決算という流れは、財政継続の重要な要素で、公金支出等の不透明さを防ぐ、そして継続した国家運営を計り、財政状況を確かなものとするために、定期的に行わなければならないものであろう。

 憲法91条「内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少なくとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。

 国の財政状況は、国家にとって重要不可欠な要素である。主権者である国民に現状の財政状況を定期的に報告するのはもちろん、国民の代表者である国会にも、財政審議の観点も含め、正しく報告する義務があろう。


 財が国家を成す要因でなる以上、財の扱いも正しく適切に行わなければならない。忘れること無かれ、国民主権である以上、国家の財は国民全体のものでもあることを…一部の者の欲を満足させるためにあるわけでないことを。。

(*2009年3月25日 )

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    第32回目                           憲法を読むパート18

 今回も引き続き、個人的観点?で憲法を読む、の内容で行きたいと思います。
 パート18と称した今回は、92条以下地方自治について見ていこうと思います。

 憲法92条「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。

 地域を分割し、各地域ごとに独立した行政権を与えるかどうかは、それも一つの国家統治のあり方だと思う。地域分割、地域性など考えず一国の領土のすべてを画一的に統治し、地方分権を構築しないという国家制度も考えようとしてはありうるし、地方分権を構築し、各地域ごとの環境特色を考えて、統治を行うという現状の国家制度もまた有効だ。日本は四季折々、山河多く、領土を見渡すと、場所場所に特色の違い、自然環境の違いがわかりやすく感じられ、全領地を画一的に全く同じように統治するより、各環境、自然の状況を考えて、地域ごとの特色を出した分権的な統治手段を用いる方がより良い面があると考えられる。だが、反面、地方分権性を明確にすることで、一環境の違い…人々が生活するに向かない環境−地域もあり、生活がし易い土地柄・環境場所などとの地域格差が現れてしまう。また、国家の経済手法によっては、(現在に見られる)一極集中型の経済状況となって、地域ごとの生活格差が大きく現れてしまう。逆に全領土を画一的に統治し、それぞれの環境に沿った生活環境を国家的に構築し、富の分配を平等化することで地域格差、生活格差を(極力)生み出さない統治方法も考えられ、地方分権性が必ずしも良いとは言い切れないところがあると思う。
 他に地方自治、地方分権の欠点としては、地域密着がため、逆にその地域住民のしがらみが発生し、一部利権の温床、また身内以外を排除する特殊な慣習が生まれやすい所が思い浮かぶ。また、独立的な地方自治は、各独立地域の統治行為の結果、財政等が破綻し、適切な行政サービスを行うことができなくなる面も考えなくてはならない。個人的には、この辺りの問題に、地方自治が抱える慢性的な病理が見え隠れしていると思っているのだが、この辺りの問題を解決しない限り、(幾らか話しに上がったりしている)道州制など行うことは難しく、どこもかしこも結局は国におんぶに抱っこの状況になりかねない。反面、こういう問題に対応できるシステムを構築し、実践することで、地域に適した優良な生活環境を生み出すことも可能で、地方自治があるがため、人々の生活の向上に繋がる面があると思う。地方分権性の必要性、そしてその欠点をよく考えた上で、地方自治というものを見ていく必要があると思う。

 さて、この憲法では、地方自治の制度を憲法上で規定し、その制度を保障している。
 92条にある「地方自治の本旨」というものには、住民自治と団体自治の要素があるとされている。住民自治とは、当該地方の住民が、自らの意思と責任において、その地方の行政を行う民主主義要素であるものと考えられている。団体自治とは、国から独立した団体によって、地方自治が行われる自由主義的・地方分権的要素であるものだと考えられている。この住民自治と団体自治という二つの要素のある「地方自治の本旨」を基礎として、「地方自治の本旨」に反しないように、法律で地方公共団体の組織及び運営に関する事項を定めなければならないとされている。こうして、「地方自治の本旨」に基づく内容は、国家立法権からの地方自治制度の侵害を防ぐ意味があり、各地域の住民の意思と責任を以って、地域に適した行政運営を行うための重要な規定となっている。


 憲法93条「@地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。A地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

 憲法でいう「地方公共団体」とは一体、どういうもなのだろうか。それを知るのに、最適な判例文があるので、記載してみる。
「憲法上の地方公共団体というためには、住民が経済的・文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持つこと、また、沿革的にも現実の行政上も、相当程度の自主立法権・自主行政権・自主財産権等地方自治の基本的権能を付与されていることが必要…(東京都の特別区は93条の「地方公共団体」に含まれないという内容の判例)。」
 
 地方自治といえるためには、その地域の住民による民主的な行政制度が必要といえよう。地域を分割しても、その地域の行政長になる者たちが国からの派遣者であるならば、国の管理下におかれていると同様…国から独立した自治体とは言えず、また、地域住民の意思が反映するための手段が、その派遣者の意識で決まることになりかねない。地方自治を行うためには、地域住民による民主的で自主的な行政機関が必要で、その住民の信任を得た……選挙で選ばれた者によって、その地域の行政が行われることで、地域住民の意思に沿った自治運営が可能となる。
 憲法93条では、地域住民の自主的で民主的な自治を行うために、議会の設置を認め、その議会の議員及び地方公共団体の長などを当該住民の選挙で置くことができるようになっている。国の組織と違い、地方公共団体の長を住民の直接選挙で決めるいわゆる「首長制」を採用しているのが特徴で、これにより、議事機関としての議会と執行機関としての長との均等衡平な権限調和を図ることができるようになっている。こうして地方公共団体の長を直接決めることができることは、より住民の意思に則った行政運営が可能となり、また、トップ長も迅速な指揮・改革等を行い易いのがこの「首長制」の長所と言えよう。反面、議会と長は独立対等であるがため、万が一対立した場合は、議事が滞り、地域行政に損害を及ぼす可能性があるという欠点が内在している。


 憲法94条「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 地方自治を行うために、地方公共団体の権能をこうして憲法上に規定するのは重要なことだ。92条では、「地方自治の本旨」に基づいてだが、法律で定めるという内容になっており、考えようによっては、国会制定の法律によって権能の制限がされる虞(おそれ)がある。その制限を防止するためにも、また、具体的に地方公共団体の権能の範囲を示すことで国家秩序を破壊するような行き過ぎた権力を持たさないためにも、憲法上で規定することに意義がある。
 地方公共団体は、財産管理、事務処理及び行政を執行する行政的権能と条例を制定できる立法的権能を与えられている。ただ、統治分野の三権の一つである司法的権能は与えられておらず、その司法分野や外交、防衛等はは国の専属事務として、条例の制定等もできないと解されている。司法権は、憲法で最高裁判所等の裁判所に属することになっており、地方の一つにそんな裁判所から独立した司法権を与えることは権力側による司法運営を認めることに繋がりかねず、圧政をもたらす危険性が考えられる(憲法で特別裁判所の禁止、最高裁判所の系列下であることの必要性から、地域単独での司法権機関設置は難しい)。また、こういう司法分野、外交、防衛等は一地域だけの問題でなく、国家内の他の地域にも関わってくることだから、独立した権能を認めるのは難しい所がある。

 93条の記載した判例文内にもあるように、相当程度の自主立法権、自主行政権等有することが、地方公共団体であるためには必要で、逆に、その自主行政権等がなければ、独立した地方自治とはいえず、92条の「地方自治の本旨」に反することになってしまう。94条の内容は、地方自治を行う上で必要な内容で(つまり、地方自治を認めるのなら、こういう行政権能を認めることは当然)、確認的意味合いも含まれているのだろう。ただ、条例の制定に関しては、法律の範囲内と規定することで、条例制定権の限界を示し、国家秩序を壊すような地域自治の恣意的行為を防ぐ意図が考えられる。地方議会で法律に反した条例制定権を認めることは、国会は国権の最高機関というこの憲法上の箇所に矛盾することになりかねず、その国権の最高機関が制定した法規を上回る上位法規の制定を条例において認めることは国家秩序を維持する観点(法的安定性の観点)からもおかしい。法律の範囲内でということは、必要でまた当然な規定だといえるだろう。
 この条例制定権…制定された条例が国の法令に違反するか否かは、「両者の対象事項と文言のみでなく、趣旨・目的・内容・効果を比較して決せられるとされ、例えば、特定事項を規律する国の法令と条例が併存する場合でも、後者が前者と別の目的に基づく規律を意図し、その適用によって前者の目的と効果を阻害しないときや、両者の目的が同じであっても、国の法令が全国一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、地方の実情に応じて別段の規制を施すことを容認する趣旨であるときは、条例は国の法令に違反しない」という判例があり、また、条例による罰則は、法律による相当な程度に具体的な委任があれば、可能であると考えられている。


 憲法95条「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

 特定の地方公共団体にのみ適用される特別法は、国会単独立法の原則の例外として、その地方公共団体の住民の投票での過半数の同意を必要としている。立法による特定地域への不利益な侵害を防止するという意図が考えられ、また立法権の制約規定であるので、こうして憲法での規定を必要とする事項だと思える。


 地方自治は、小さな国家と言えるようなもの。それを運営する者(住民含)は、小さな国家の一員としての責任と義務があることを忘れてはならない。

(*2009年4月27日 )

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     第33回目                          憲法を読むパート19

 個人的観点?で憲法を読む、今回は96条〜99条までを見ていこうと思います。


 憲法96条「@この憲法の改正は、各議員の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。A憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 憲法改正に関しての規定である。法治国家の最高法規とされている憲法が易々変わってしまったら、法的秩序などの安定性が損なわれ、また、その方法によっては、一部権利者、力ある者に利用されかねない。憲法自身に関する事項ということもあり、最高法規の憲法上にこうしてきっちり規定する必要のある事柄だと思われる。
 内容を見ると、各議員総議員の三分の二以上の賛成による国会の発議と、国民投票の過半数の賛成による承認が必要という厳しい条件が掲げられているが、やはり、憲法の維持・安定性を考えると厳しい条件にするのにも意味がある。
 ここで思うところは、憲法改正を行う第一条件として、国会の発議が必要なところ。国会は国権の最高機関、国会議員は国民の代表者とい位置づけであるので、まず国会での発議を必要とするのも理解できるが、反面、現在のような?職業政治家…政治家が固定されやすい?環境では、特に自らを律するような改正は行われにくいと思われるところがある。憲法は、政治家などの公務従事者を律する側面があり、権力者による暴力・恣意的行為を阻止するために国民側から付与された一面が見える。自分たちが有利になるように憲法を利用されるのも困るのだが、自分たちに不利になるような、より責任を負わすような内容を避けることにも問題がある。国会議員、政治家が、自らを律するような法規を掲げる力があるのなら、現状の条文で十分だと思われるが、そうでない場合…例えこの憲法に欠点があるにしても、政治家等が不利になるなら改正の発議を行わないことになると、結局は、国民が損害を被る…権力者の恣意的行為を認めていることになるのではないか。
 観点を変えて、もし、国会の発議を必要とせず、国民側から憲法改正の発議が可能とした場合はどうか?良い部分としては、主権のある国民主導で自分たちが望む法規を生み出しやすい点が考えられる。反対、発議方法を厳密に考えないと、一部の思想、組織団体や自分たちの利益だけを考える集団等に利用される自体になり、かえって国家的秩序・安定を破壊されかねない危険性が考えられる。またそうした一部国民側による恣意的利用を防ぐために、厳しく条件付けし過ぎた場合、発議自体ができないという本末転倒なことになりかねない側面もあるだろうか。憲法は、法治国家にとって、基礎となる法規である。一部の国民の利益のためにあるわけでなく、国家全体、国家の安定維持のために存在するもの。大勢の者が自分の利益を追求するのでなく、国家全体を見てより良くするという意識がなければ、主導で憲法改正等に関わることは難しいかもしれない。
 国民から選ばれた政治的能力がある者が、発議を行うのも意義があること。結局は……国会議員が、国民の代表者・全体の奉仕者として、国家国民のため行動し、自らを律することが可能なら、この条文に間違いはないだろうが、それができない、人の本質……自分たちの利益を優先するということなら、この憲法改正の方法を改めて考えないといけないのではないかと思ってしまう。


 憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 基本的人権の本質に関する事項で、基本的人権の永久不可侵性を改めて確認し、憲法を遵守する必要がある国民がこれを守り続けるように、またこうして基本的人権を保障せしめることで、この憲法の最高法規性を呼び起こす根拠になっていると考えられる。永久不可侵的なものであることから、この規定に反する憲法改正は不可能だと思われる。


 憲法98条「@この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。A日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 憲法が最高法規であることを明確にする内容で、法治国家上、この最高法規である憲法に反するその他の法規は効力を有しないその理由を明らかにする重要な規定である。
 憲法前文にある国際協調主義−国際道徳の尊重の現われとして、国家間で締結した条約等の遵守を明確に規定している。一般人同士でも約束は守られるべきこと、国家間ならよりその意義は大きくなる。ただ、力によって押し付けられた条約なども守らなければならないのかという問題になると、国家の維持、独立性の観点からすれば場合によっては反故にできると考えられるが、基本的には例え自国に不利な内容でも正式に為された場合の国家間の合意は、この規定上、遵守されなければならないと考えられる。


 憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。
 
 公務従事者・関係者…権力に携わる者に対して、特に憲法を尊重し擁護する義務を明文化している。国民主権と言っても、国家権力との力関係の差がある以上、国家側の力を抑える必要がある。憲法は、国民側からによる公務担当者、権力担当者へ向けた規律的要素があると考えられ、それを具体的に示した規定がこの条文ではなかろうか。これにより、天皇、国会議員等、その他の公務員は、一般国民以上にこの憲法を尊重擁護する義務があるわけだが、責任を取ってもらう…罰則、制裁の内容までは規定していないため、どこまで効果のあるものわからないところがある。この規定はあくまで、この意識を持って職務に当たってもらうという確認的・精神論としてあるわけなのだろうか。本来なら、国家運営に関して、政治担当者などに失策または不作為(何もしない)がある場合、何らかの責任を取ってもらうのは当然のことだと思うのだが、実質的には、明らかな犯罪行為でない限り、罰を受けることはなく、国会議員等の場合はせいぜい選挙に影響を与えるぐらいか。国会議員などは選ぶ国民側にも問題はあるが、衆議院議員など地域ごとに選ぶという選挙制度になっているため、例えその者に政治担当者として問題があるとしても、地域地元への影響力の大きさから選ばれるという疑問点がある。他、多数決制度のため、例えその目的が自分たちの利益を追求するものであっても、数の力…集団組織等に有利に働く面がある。例え、選ばれる経緯がどうであっても、選ばれた者が、一部のためでなく全体のために行動できるのなら、選挙などでの色々な疑問点は解消されるだろうが、その背景から一部の者のために動く…国家全体から見れば損害を生じる内容でもその一部の者たちのために行動する可能性は否定はできない。国家に損害を与える…それは、国民に悪影響を与える…ことを意図的にしても、道義的責任しかないというのなら、本当の意味での国家の安定・秩序の維持は守られない。義務には責任が付いてくる。その責任をどう表現するか、それこそ、国家にとって重要なことでなかろうか。

 例えば、法律によって、国会議員等にその職務に関して特に責任を負わす(…内容として例えば、懲役、財産没収・歳費等の返還、権利の制限等考えられる。)規定を策定できると思われるが、現状としてそういう政治行為などに対しての罰則的規定は制定されていない。自分たちを苦しめるものをあえて作りたいと思わない人の本質が見えてくるが、反面、もし規定するにしても基準をどうするのかなどの運用に関しての疑問点が湧いてくる。基準等を判断する特別組織の創設も考えられるが、そこでの人選などでまた考えなければならない問題点はある。ただ、この99条違反者に対して、また、その政策行為、公務行為で国家・国民に損害を与えた者に対して、憲法を始めとする法規で責任を負わす…罰則的規定を用意することはできると思われ、どうするかは主権のある国民も含めた政治判断に依ることだと思う(責任を負わす規定があるために、失敗を恐れ行動を萎縮させてしまうところもある…政治でもある程度の失敗は考慮に入れるべきで、問題としては、修正可能かどうかであろう)。


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 100条以下は補則となっていて、憲法施行当時の事柄なので、この「憲法を読む」は99条で終了となります。憲法は知って置いて損はない?国民なら知るべき内容なのかもしれません。抽象的と思われる内容もあるため、各所、人によって解釈が違うところがあるでしょう。個人的観点で見させていただきましたが、全体を通して、個人的に思うところは、この憲法−書いている内容は正しいと思え、ただ、この憲法を的確に実施できる国家制度、社会制度なのかは疑問に思うところはあります。憲法があって、その国の制度、社会が決まるというのなら、現実の社会を見て、憲法を変える必要性があるのではないかと思いますが、例え完璧な法規…完璧な憲法があってもそれを確実に実施できない、守られないのなら、それは社会自体(人の性質など)に問題があり、いくら憲法を触ったり変えたりしても大して変わらないことになります。この憲法が制定されてから、現在まで、それ以前より文明は発展し、生活は豊かになったと思います。そして、日本の国は何のかの?言っても、平和だと思います。この憲法があるから平和なのかはわかりませんが、また違った内容の憲法なら殺伐とした国になっていた可能性もあるわけで、この憲法は悪くはないのだろうなと感じられます。……正直言って、今、日本の国の行く先は不明で、未来がどうなるかわからなくなってきている状態です。この憲法で規定された内容で国家の維持が難しいのなら、憲法改正が必要なのかしれませんね。
 とりあえず、個人的観点で?「憲法を読む」はひとまずここで終わります。。
 
 
(*2009年5月30日 )

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